伝記
ピーター・マンスフィールドは、1933年10月9日にロンドン南部のランベスで生まれたイギリスの物理学者である。核磁気共鳴画像法に関する発見により、2003年のノーベル生理学・医学賞をアメリカのポール・ラウターバーとともに受賞した。父シドニー・ジョージは、ガス会社の取り付け工で、母はローズ・リリアンといった。三兄弟の末っ子で、兄にコンラッドとシドニーがいる。カンバーウェルで育ったが、第二次世界大戦中の1939年、6歳でロンドンから疎開した。はじめはケント州のセブノークスに短期間、その後は2度、デヴォン州のトーキーに移り、同じ家族のもとに身を寄せた。
戦後ロンドンに戻ると、教師に言われて受験することになった11歳の試験を、聞いたこともなく準備する時間もなかったために、地元のグラマースクールの席を得られなかった。ただ、成績はペッカムの学校に行くには十分だった。15歳のとき、進路指導の教師から、科学は向いていないと告げられ、まもなく学校を去って、印刷の助手として働いた。18歳のころ、ロケットに興味を持つようになり、バッキンガムシャー州のウェストコットにある、供給省のロケット推進部で職を得た。18か月後に兵役に召集され、2年間軍に勤めたのち、ウェストコットに戻って、夜間学校で上級の試験の勉強を始めた。その2年後、ロンドンのクイーン・メアリー・カレッジに入って物理学を学んだ。
1959年に理学士号を取得した。最終学年の課題で、ジャック・パウルズの指導のもと、トランジスタを用いた携帯型の分光計をつくり、地球の磁場を測ってみせた。これが、機器を独創的につくる非凡な腕前を示し、核磁気共鳴の研究への新たな情熱を見つけるきっかけとなった。パウルズに誘われて研究グループに加わり、固体の高分子を調べるためのパルス式の分光計の開発に取り組んだ。1962年に、固体中の陽子の磁気共鳴の緩和に関する論文で博士号を取得した。その後、イリノイ大学のチャーリー・スリクターのもとで、博士研究員として金属の研究をした。1964年にイギリスに戻り、ノッティンガム大学の物理学教室に職を得て、核磁気共鳴の多重パルスの研究を続けた。1968年に上席講師、1970年に準教授となり、研究チームは、医学研究評議会の寄付を得て、磁気共鳴の装置を開発した。
ラウターバーとマンスフィールドの進展により、1970年代に、核磁気共鳴を体の画像づくりに使えるようになった。マンスフィールドは、磁気共鳴画像法の「スライスの選択」を発明し、磁気共鳴の電波信号を数学的に分析する方法を見出して、信号を有用な画像に解釈する道を開いたとされる。画像を得る速さの可能性も示し、速い撮像法の開発でも功績があるとされる。1972年から1973年にはハイデルベルクのマックス・プランク医学研究所の客員となった。1979年にノッティンガム大学の物理学教室の教授に任命され、1994年に退職するまで務めた。1987年に王立協会のフェローに選ばれ、1997年にはランク賞の光エレクトロニクス部門を受賞した。2017年2月8日に死去した。
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