伝記
コンスタンス2世は、西ローマ皇帝コンスタンティヌス3世の長男で、409年から411年まで父の共同皇帝を務めた人物である。生年は不明で、411年に没した。
当時の西ローマ帝国は、395年にテオドシウス1世が没して帝国が二人の息子に分けられて以来、ゲルマン系の諸部族の侵入に悩まされていた。406年にはブリタンニアに駐留していた約6,000の野戦軍が不満を募らせて反乱を起こし、マルクス、続いてグラティアヌスを皇帝に立てたが、いずれも満足できず殺してしまった。そして407年の初め、同じ名をもつコンスタンティヌスを皇帝として擁立した。コンスタンスの父である。
父が反乱を起こしたとき、コンスタンスは修道士だったという。新しい宮廷に呼び寄せられ、父がガリアのアルルを都と定めると、後継者を意味する副帝の地位に任じられた。一部の歴史家によれば、このとき名をコンスタンスに改めたとされ、コンスタンティヌス大帝の末子で、父の死後に皇帝となった同名の人物を思い起こさせる意図があったという。元修道士の彼は、王朝を築くためにすぐ結婚させられた。
408年、ヒスパニアでホノリウスの親族たちが武器を取り、コンスタンティヌスの統治機構を追い出した。コンスタンスは将軍ゲロンティウスとともに軍を率いて送られ、父の権威を再び確立した。409年の初めにホノリウスがコンスタンティヌスを共同皇帝と認めると、コンスタンティヌスはただちに息子を正帝に引き上げた。理論上はホノリウスや父と同格の地位である。ただし、正統な皇帝の一覧にコンスタンスを含めるかどうかについては、意見が分かれている。
しかし同じ409年、ゲロンティウスが反乱を起こし、自分の配下マクシムスを皇帝に宣言して、ガリアに侵入していた蛮族の諸集団にも蜂起をうながした。コンスタンスは鎮圧のためヒスパニアへ送られたが敗れ、アルルまで退いた。410年には別の軍を率いて再びヒスパニアへ向かったが、蛮族を戦力に加えていたゲロンティウスに戦いで敗れ、北へ退いた末に再び敗れた。411年の初めにヴィエンヌで捕らえられ、処刑された。アーサー王伝説では、コンスタンスはユーサー・ペンドラゴンの長兄とされている。
同じ年に亡くなった人物
- アクイレイアのルフィヌス (411年)
- コンスタンティヌス3世 (411年没)
- グンドマール (411年)
同じ地域に関係する人物
- Peter Julian Eymard (1868年没)
- ジョニー・セルボ=ギャバン (2006年没)
- エマニュエル・アルサン (2005年没)
- クロドメール (524年没)
- ヘレナ (360年没)