伝記
キュレネのシュネシオスは、古代末期の新プラトン主義哲学者であり、第二次ソフィスト、キリスト教の司教でもあった人物である。370年ごろ、キュレネの異教徒の貴族の家に生まれ、413年ごろに没した。富裕な家柄で、ヘラクレスの仲間の一人の子孫と称していたという。ヒュパティアの教え子として知られ、著作、書簡、讃歌が複数現存している。若いころは読書と狩りの田園生活を送り、弁論術を学び、アリストテレスやホメロス、プラトンの伝統に親しんで、ディオン・クリュソストモスの後継者を自任した。やがてアレクサンドリアに出て、ヒュパティアの学校に入った。395年から399年にはアテナイに滞在したが、この都市も、そこで盛んだった新プラトン主義の学派にも深く失望したとされる。399年、故郷の人々から減税を陳情する使節に任じられ、コンスタンティノポリスのアルカディウス帝の宮廷に401年まで(402年に帰ったともされる)留まった。この滞在は疲れる不快なもので、余暇を文章の執筆にあてた。その間に書かれたのが『統治論』と『エジプトの話』である。『統治論』は皇帝に哲人政治を説き、ゴート族の軍人を追放してローマ人の軍隊を作るよう訴えた弁論で、権力の濫用や腐敗を批判した。『エジプトの話』は政治寓話である。使節の任務は成功し、税の大幅な軽減を得て帰った。
403年、キュレネでキリスト教徒の女性と結婚し、3人の子をもうけた。この結婚は、アレクサンドリア総主教テオフィロスが自ら執り行ったという。405年には、キュレネを蛮族の襲撃から守るために私兵を組織した。防衛に力を注ぎ、新型の投石機を作り、防備を固めたとも伝えられる。403年ごろには、ディオンを論じた『ディオン』と、神の命により一夜で書き上げたという夢の理論の書『夢について』も成立している。
その働きに感謝して、プトレマイスの聖職者と民衆は彼を司教に選んだ。任命は409年末か410年とされる。シュネシオスは非哲学的な司教職を嫌がり、6か月悩んだすえに受諾し、哲学的なやりがいを見出して折り合いをつけたという。任命された理由は信仰の厚さよりも、人材としての有能さにあったとされる。受諾にあたっては、結婚生活も、通俗的な信仰を受け入れられない哲学的信念も捨てないという条件をテオフィロスに示したともいわれる。一方で、司教となって以降、書簡に妻への言及がなくなることから、離婚したとする記述もある。司教としては、砂漠の部族の襲撃や、高官アンドロニコスの虐待から同胞を守るために権威を用い、アンドロニコスに対して、記録上初めてとされる厳粛な破門を宣告した。
晩年は苦いものだった。弟は、財政破綻につながる都市参事会員への任命を避けて逃亡せざるをえなくなった。413年、3人の子を失ったシュネシオスは、死の床から師ヒュパティアに書簡を送り、彼女が人が耐えうる限りの不幸を味わったと記し、ヒュパティアも友人たちも自分の手紙に返事をくれないと訴えた。同年に没したと推定され、415年のヒュパティアの死に触れる書簡がないことが根拠とされる。
156篇の書簡のほか、『禿の賛美』、『アストロラーベについて』、10篇の讃歌などが残る。讃歌はキリスト教と新プラトン主義が混ざり合った作品である。1489年にはフィチーノが『夢について』をラテン語訳で刊行し、1562年にはカルダーノがこれを出発点にした夢理論の書を著した。2009年の映画『アレクサンドリア』でも、ルパート・エヴァンスがシュネシオスを演じた。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- キュレネのラキュデス (紀元前204)
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- デメトリオス (紀元前249)
- プトレマイオス・アピオン (紀元前95)
- アゲシラオス2世 (紀元前360年没)