HISTORICAL PERSON · 2018年没

コフィー・アナン

ガーナ出身の第7代国連事務総長。1997年から2006年まで務め、在任中の2001年にノーベル平和賞を受賞した。

生涯
2018年没
死亡地
スイス連邦(ベルン州 / ベルン)
出生地
ガーナ共和国(クマシ)
出典
世界地図
スイス連邦(ベルン州)

伝記

コフィー・アッタ・アナンは、1938年4月8日、イギリス領ゴールド・コーストのクマシで、双子として生まれた。ガーナでは双子は大切にされ、双子の姉エフアは1991年に亡くなっている。二人に共通するミドルネームの「アッタ」は、ファンテ語とアカン語で「双子」を意味する。祖父と叔父は部族の長で、一家は国のエリートに属していた。1954年から1957年までは、ケープコーストのメソジスト系の名門寄宿学校に学び、卒業した1957年にガーナはイギリスから独立した。1958年にクマシの科学技術大学で経済学を学び始め、フォード財団の助成を得て渡米し、1961年にミネソタ州のマカレスター大学を卒業した。続いて1961年から1962年にジュネーヴの国際・開発研究大学院で学び、のちに1971年から翌年にかけてマサチューセッツ工科大学のスローン・スクールで修士の学位を得た。英語、フランス語、クル語、アカン語などアフリカの諸言語を話した。

1962年に世界保健機関の行政・予算担当官として国連に入り、アフリカ経済委員会、エジプトの国連緊急軍、国連難民高等弁務官事務所などに勤めた。一度ガーナに戻り、1974年から3年間はガーナ観光振興会社の常務取締役を務めた。1980年に難民高等弁務官事務所の人事部長となり、1984年に国連本部の予算部長、1987年に人事管理担当の事務次長補、1990年に財務官兼計画立案・予算・財政担当の事務次長補を歴任した。1990年にイラクがクウェートに侵攻すると、900人を超える国連職員の帰還と、人質になった西側の人々の釈放を促す特別の任務を事務総長から求められ、人道援助物資の購入のための原油販売についてイラク側と交渉する、初の国連代表団を率いた。

1992年に平和維持活動担当の事務次長補、1993年から1996年まで同担当の事務次長となった。1994年のルワンダの虐殺は、この在任中に起きた。国連ルワンダ支援団の司令官だったカナダ人のロメオ・ダレールは、2003年に著書で、アナンが国連軍の介入を差し止め、武器庫への立ち入りを求める自分の再三の連絡にも応えなかったと批判した。アナンは2004年に、警鐘を鳴らして支持を集めるためにもっとできたし、そうすべきだったと述べている。1995年11月からは旧ユーゴスラビア担当の事務総長特別代表を務め、ボスニア・ヘルツェゴビナで、国連保護軍から北大西洋条約機構主導の和平履行部隊への引き継ぎを監督した。

安全保障理事会は、1996年12月13日にブトロス=ガリの後任としてアナンを推薦し、総会で承認されて、1997年1月1日に国連職員出身では初の事務総長に就任した。2001年4月にはエイズの流行に打ち勝つため5項目の「行動の呼びかけ」を発表し、エイズ・結核・マラリア対策のための世界基金の創設を提案した。同年12月10日、国連とともにノーベル平和賞を受けた。2003年のイラク侵攻の準備では、国連の支持なしに侵攻しないよう米英に求めた。2004年には国連事務総長として初めて来日し、国会で演説した。2006年12月に退任する際には、国連を無視する米国の行動を批判した。イラクの石油食料交換プログラムをめぐる不正疑惑で批判を受ける時期もあり、2012年にはシリア問題の合同特使に任命された。2018年8月18日にスイスのベルンで死去し、9月13日にガーナで国葬が営まれた。

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