伝記
ロバート・チャールズ・ヴェンチューリ・ジュニアは、1925年6月25日にフィラデルフィアで、父ロバート・ヴェンチューリ・シニアと母ヴァンナのもとに生まれたアメリカ合衆国の建築家である。クエーカー教徒として育てられ、1947年にプリンストン大学を最優等で卒業した。在学中にはダマト賞を受けている。教授のジーン・ラバトゥは、ボザール様式の教育の枠組みのもとで挑発的な設計スタジオを開いていた人物で、その指導は、様式ではなく分析の言葉で語る、建築史と商業建築に学ぶ設計の姿勢を育てるうえで重要だったという。1950年に学位を得ると、1951年にはミシガン州ブルームフィールドヒルズでエーロ・サーリネンのもとで短期間働き、続いてフィラデルフィアのルイス・カーンのもとに移った。1954年にローマ賞のフェローシップを得て、ヨーロッパで2年間を過ごした。
1959年から1967年までペンシルベニア大学に勤め、カーンの助手、講師、のちに准教授を務めた。1960年にはウィリアム・ショートとヴェンチューリ・アンド・ショート事務所を設立し、1964年からはジョン・ラウチがパートナーとなって、事務所は「ヴェンチューリ・アンド・ラウチ」に改称された。1960年には、同僚の建築家・プランナーのデニス・スコット・ブラウンと知り合い、1967年7月23日にサンタモニカで結婚した。1969年にはスコット・ブラウンも事務所に加わり、計画の責任者となった。1989年にラウチが抜けると、事務所はヴェンチューリ・スコット・ブラウン・アンド・アソシエイツと称した。この事務所は1985年にアメリカ建築家協会の建築事務所賞を得ている。
モダニズム建築の前提に疑問を投げかけた最初の建築家の一人で、機能主義的で象徴の意味において空虚な建築を批判した。1966年に「穏やかなマニフェスト」として『建築の多様性と対立性』を出版した。ヴィンセント・スカーリーは、ル・コルビュジエの『建築をめざして』以来の名著と評した。ミケランジェロやアルヴァ・アールトのほか、当時忘れられていたエドウィン・ラッチェンスの作品も引き、図式化された様式ではなく「複雑な全体」を主張した。1968年には、イェール大学で、スコット・ブラウンらとともに学生チームを率いてラスベガス・ストリップを記録し、分析した。1972年に出版された『ラスベガス』は、1977年に改訂されて再刊され、「あひる」と「装飾された小屋」という言葉で、同地の建築を体現する二つの方法を説明した。ミース・ファン・デル・ローエの標語「少ないほど、豊かである」を「少ないほど、退屈である」と皮肉ったことでも知られる。
作品では、1960年代後期の「母の家」の切断された切妻屋根や、ギルド・ハウスの分割された円弧状の窓などが世界に影響を与えた。1991年にプリツカー賞を受けたが、パートナーのスコット・ブラウンも受賞者に加えるよう求めたものの、賞は単独のものとなった。のちに女性建築家のグループが彼女の名を遡って加えようとしたが、審査員に拒まれた。1993年にベンジャミン・フランクリン・メダル、2016年にアメリカ建築家協会のゴールドメダルを受けた。2018年9月18日、アルツハイマー病の合併症により93歳で死去した。
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