HISTORICAL PERSON · 2018年没

ギルマ・ウォルドギオルギス

エチオピアの政治家。帝政時代に下院議長を務め、2001年から2013年まで連邦民主共和国の第2代大統領を務めた。

生涯
2018年没
死亡地
エチオピア連邦民主共和国(アディスアベバ)
出生地
エチオピア連邦民主共和国(アディスアベバ)
出典
世界地図
エチオピア連邦民主共和国(アディスアベバ)

伝記

ギルマ・ウォルドギオルギス・ルチャは、1924年12月8日にアディスアベバで生まれたエチオピアの政治家、軍人、実業家である。民族はオロモ人で、エチオピアの人口の約3割を占める集団の出身とされる。エチオピア正教会に属する学校で学び始め、イタリアの侵攻の際には、通っていた学校がイタリア系の学校に改称され、そこで学んだとされる。オロモ語、アムハラ語、英語に堪能で、妻との間に5人の子がいた。

若くして軍に入り、通信や空軍の分野で働いた。空軍では航空管制などの課程を各国で修め、アメリカ人の技術者が中心だった時代のエチオピア空軍で、最初期のエチオピア人のひとりとなった。航空会社への就職を同胞に勧め、基礎についての本も書いている。1947年にはエリトリア連邦政府の民間航空の長になり、1949年にエチオピアの民間航空の総裁に就いて、同じ時期にエチオピア航空の理事会の一員も務めた。1951年には、新設された商工計画省の局長級の総裁となった。

のちに国会議員となり、帝政期のハイレ・セラシエ皇帝の時代に議長も務めた。国際議員同盟にエチオピア議会の議席を得るのを助け、スイスやデンマーク、旧ユーゴスラビアでの会議に出席した。ユーゴスラビアの会議では南アフリカのアパルトヘイトを批判した。1974年に帝政が倒れたあとは、メンギスツ・ハイレマリアム率いる暫定政府の代表として、エリトリアで働いた。軍事政権によるエリトリア問題の平和的な解決の計画では、副委員を務めたとされる。軍事政権が倒れてからは実業家として活動した。非政府の分野でも、商工会議所の理事、木材加工業の創設者などを務め、エリトリアではエチオピア赤十字社の支部長やハンセン病対策組織の総裁を務めた。1990年にアディスアベバに戻ると赤十字社の理事となり、1992年3月には環境保護団体を設立している。

1992年の決選投票で、無所属の候補として当選し、連邦民主共和国の人民代表院の議員となった。メレス・ゼナウィの政権のもとで、ネガソ・ギダダ大統領の任期満了にともない、2001年10月8日に第2代大統領に就任し、2013年10月まで務めた。退任後の2014年1月、エチオピア国営テレビで、エチオピアとエリトリアの和解を訴え、これを自らの最後の務めと位置づけた。1998年から2000年の戦争に至る15年ほどの不和を経て、和平交渉を始めようとする人々の取りまとめにも当たったという。2015年にはインド人の著者による公式の伝記も刊行された。2018年12月15日、自然死で亡くなり、94歳であった。

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