伝記
下村脩は、1928年8月27日に京都府福知山市で、陸軍軍人の家に生まれた生物学者である。専門は有機化学と海洋生物学で、生物発光の研究の先駆者として知られる。父の生家は長崎県雲仙市にあり、代々庄屋を務めた名家で、下村は14代目にあたる。父の転勤に伴い、満州国や佐世保、大阪などで暮らし、旧制中学生のときに母の実家のある諫早市へ疎開して、勤労動員の生活を送った。16歳のとき、諫早で原子爆弾に遭遇した。爆心地からは約20キロ離れていた。戦後に諫早中学校を卒業した。
旧制高校への進学を望んだが、中学時代に勉強ができず、内申書を取れなかったため断念し、3年近い浪人生活を送った。戦後、長崎医科大学附属薬学専門部が、諫早市の自宅の近くに移ってきたため、そこに進み、1951年に卒業した。武田薬品工業の研究職を志したが、面接で「あなたは会社員に向きません」と言われて落ちた。長崎大学の安永峻五教授のもとで、実験実習の指導員を4年間務めた。安永は、下村を研究者に育てようと、名古屋大学に1年間の内地留学をさせることを考えた。1955年の春に二人が訪ねると、目当ての教授は不在で、代わりに応対した有機化学の平田義正教授が、「私の所にいらっしゃい」と言った。下村は分子生物学も有機化学も知らなかったが、天の指図だと思い、平田の研究室に行くことにした。
平田から与えられたテーマは、「ウミホタルのルシフェリンの精製と結晶化」だった。プリンストン大学のグループが20年以上も前から取り組んでいた難問である。下村は研究に没頭し、10か月後の1956年2月に、27歳で結晶化に成功した。続けて構造を明らかにして論文にまとめ、1960年4月に名古屋大学から理学博士号を授与された。論文を読んで感銘を受けたプリンストン大学のフランク・ジョンソン教授に招かれ、1960年8月に横浜港から氷川丸で渡米した。フルブライト奨学生として、ジョンソンのもとでオワンクラゲの研究を始めた。1963年に帰国して名古屋大学の助教授となったが、思うような研究ができず、妻の助言もあって、1965年に再びアメリカに渡り、プリンストン大学の上席研究員となった。
1962年には、フライデーハーバーの実験所で、オワンクラゲから発光たんぱく質のイクオリンと、緑色蛍光たんぱく質(GFP)を発見した。これは、生命科学や医学の重要な研究のツールとなった。1982年からはウッズホール海洋生物学研究所の上席研究員となり、2001年にはボストン大学の名誉教授になった。2001年に研究所を退いてからも、自宅に研究室を作って研究を続けた。2008年、「緑色蛍光たんぱく質の発見と開発」により、マーティン・チャルフィー、ロジャー・チエンとともにノーベル化学賞を受けた。同じ年に文化勲章も受けた。ノーベル賞の決定後には、「いい学校に行かなかったから良い研究ができなかった、そんな考え方はやめてほしい」と語った。アメリカに住みながら、国籍は日本のままだった。
自分の研究は、安永、平田、ジョンソンの3人の恩師に導かれて生まれたと、常に感謝を語った。2010年4月には、オワンクラゲを飼う鶴岡市立の加茂水族館で、一日名誉館長を務めた。息子の下村努は、コンピューター・セキュリティの専門家として知られる。2018年10月19日、老衰のため長崎市で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ラザン・アル=ナジャール (2018年没)
- マリオ・セガール (2018年没)
- ヴィニー・ポール (2018年没)
- エリック・ブリストウ (2018年没)
- マイケル・ハーナー (2018年没)
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