HISTORICAL PERSON · 2018年没

ミロス・フォアマン

チェコスロヴァキア出身のアメリカの映画監督。チェコ・ヌーヴェルヴァーグの一員として活動した後、アメリカへ拠点を移し、アカデミー監督賞を2回受賞した。

生涯
2018年没
死亡地
アメリカ合衆国(コネチカット州 / ダンベリー)
出生地
チェコ共和国(チャースラフ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(コネチカット州)

伝記

ミロス・フォアマンは、本名をヤン・トマーシュ・フォルマンといい、1932年2月18日に生まれ、2018年4月13日に没した、チェコスロヴァキア出身でアメリカ合衆国の映画監督である。ミロシュ・フォアマンとも書かれる。チェコ・ヌーヴェルヴァーグの一員として活動したのちにアメリカへ拠点を移し、アカデミー監督賞を2回受賞した。

チェコスロヴァキアのチャースラフで、夏のホテルを営んでいたアンナ・シュヴァーボヴァの子として生まれた。両親はプロテスタントの教会に通っていた。本人は、父をルドルフ・フォルマンと信じていた。ナチスの占領下で、ルドルフはチェコの抵抗運動の一員として、禁書を配った罪で逮捕され、1944年5月にブーヘンヴァルトの支所、ミッテルバウ=ドーラで、チフスにより死んだとされる。母も前年の3月にアウシュヴィッツで殺された。少年は、収容所の映像を16歳のときに見るまで、何が起こったかを十分に理解していなかったという。その後は親戚や友人の家で育てられた。12歳年上の兄パヴェルは画家で、1968年の侵攻後にオーストラリアへ移った。のちに、実の父がユダヤ人の建築家オットー・コーンであったことを知った。若い頃は演劇のプロデューサーになりたいと考え、戦後はポジェブラディの寄宿学校に入った。同級生には、のちに大統領になるヴァーツラフ・ハヴェルや、映画監督のイヴァン・パッセル、イエジー・スコリモフスキがいた。1951年からプラハの芸術大学で脚本を学び、アルフレート・ラドクの助手を務めた。

1960年代にチェコ・ヌーヴェルヴァーグの一員となった。初期の『黒いペートル』(1964年)は、ロカルノ国際映画祭の金豹賞を受けた。『ブロンドの恋』(1965年)と、次の『火事だよ!カワイ子ちゃん』(1967年)は、連続してアカデミー外国語映画賞の候補になり、東欧を代表する監督と認められた。後者は初めてのカラー作品で、東欧の共産主義を辛辣に風刺したと見られ、当局に長く上映を禁じられた。1968年にワルシャワ条約機構の軍が侵攻すると、パリで最初のアメリカ映画の契約を交渉していたフォアマンは、チェコの映画会社に解雇され、アメリカに渡る道を選んだ。英語圏の第1作『パパ/ずれてるゥ!』(1971年)は、批評家には酷評されたが、カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受けた。小説の映画化『カッコーの巣の上で』(1975年)は、批評的にも興行的にも成功し、史上2本目の主要5部門のアカデミー賞受賞作となり、自身も監督賞を受けた。同年にアメリカの市民権を取得し、1978年にはコロンビア大学の映画学科の教授に就任した。

『ヘアー』(1979年)や『ラグタイム』(1981年)など大作を次々に監督し、1984年の『アマデウス』で、2度目のアカデミー監督賞を受けた。『ラリー・フリント』(1996年)でベルリン国際映画祭の金熊賞を、『マン・オン・ザ・ムーン』(1999年)で同映画祭の銀熊賞(監督賞)を受賞した。2006年の『宮廷画家ゴヤは見た』が遺作となった。2018年4月13日、コネチカット州の病院で亡くなり、翌日に妻が公表した。モーツァルトやラリー・フリント、アンディ・カウフマンなど、伝記映画をしばしば手がけた。1996年にチェコの天文学者が発見した小惑星には、「フォアマン」の名がつけられている。

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