伝記
ニーコンは、1652年から1666年までモスクワおよび全ルーシの総主教を務めた人物である。1605年5月7日に生まれ、1681年8月17日に没した。ロマノフ朝2代目のツァーリ、アレクセイの庇護のもとで総主教となり、一連の改革を行って政治的にも権勢をふるったが、傲慢な態度が災いして1666年に地位を剥奪された。とりわけ大きな影響を与えたのは、1653年に始まる奉神礼の改革で、これによってロシア正教は分裂し、その余波は20世紀後半にまで及んだとされる。
俗名はニキータ・ミノフといい、ニジニ・ノヴゴロドの出身である。フィン系のモルドヴィン人の血を引くという説もある。30歳前に三人の息子をペストで亡くし、その後ソロヴェツキー修道院で剃髪した。モスクワに上るとアレクセイに厚遇され、ノヴォスパスキー修道院長、ついでノヴゴロド府主教に任じられるなど、急速に出世した。才気と行動力に満ち、ツァーリに対しても臆することがなく、一種のカリスマ性すら備えていたようで、そうした資質がアレクセイを惹きつけたといえよう。1652年、ツァーリの要望によって47歳で総主教の座に着いた。
当時は、リューリク朝の断絶から動乱時代(1598年から1613年)に至る混乱がようやく収まりかけた時期であった。西ルーシはポーランド・リトアニア共和国の支配下にあり、1596年にはブレストの教会合同で、ローマ教皇の管轄権を受け入れざるを得なくなっていた。その後、西ルーシはキエフ主教座を回復し、イエズス会の方法を取り入れた独自の正教教育を始め、神学は洗練された。モスクワより早く西欧の印刷技術を取り入れた西ルーシの書物は、モスクワにも入り込んだ。この新しい文化の波を受け入れるか、異端として排除するかが、モスクワ正教会の大きな問題となっていた。一方、国内の教会は所領を増やしながら、聖職者の無知や怠惰、風紀の乱れが訴えられていた。1636年には、ニジニ・ノヴゴロドの司祭らから、そうした嘆願書が提出されている。
ニーコンはもともと、改革意識の強い敬虔派の聖職者の一人で、ノヴゴロド府主教の時代に管轄下で多旋律の聖歌を禁じ、モスクワに来るたびにツァーリへ単旋律の勤行を披露した。1651年の教会会議で単旋律の導入が決まるにあたり、大きく働いたのはこの勤行であった。総主教となって最初に取り組んだのは祈祷書の統一で、ギリシア人の学者に典拠となる祈祷書を作らせた。続いてロシア古来の儀礼をギリシア式に改め、1653年2月の復活祭の直前には、十字を切る指を二本から三本に変え、大斎期の跪拝を16回から4回に減らすよう通達した。ロシアが全正教会の守護者となるために必要な変更だったと考える研究者もいる。
改革は、儀礼を重んじる聖職者の激しい反発を招いた。敬虔派の多くは、これを儀礼の修正ではなく伝統の破壊と受け止め、ニーコンをカトリックの手先とみなした。ニーコンは破門や監禁、流刑で対処し、アヴァクームはシベリアのトボリスクに流された。1654年ごろにはツァーリから大君の称号を与えられ、ツァーリ不在の間は摂政を務めたが、しだいに傲慢となった。1658年7月には新エルサレム修道院へ突然引きこもり、以後ほぼ十年、総主教が不在の状態となった。1666年の大教会会議で総主教座を剥奪され、ベローゼロの修道院などに送られた。翌年には改革が正式に承認され、二本指で十字を切る者は分離派と呼ばれて弾圧された。ニーコンは1681年に没した。
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