伝記
バルトロメ・エステバン・ペレス・ムリーリョは、17世紀のスペイン黄金時代を代表するバロック期の画家である。「ムリリョ」とも表記される。1617年末に生まれ、1618年1月1日にセビーリャのサンタ・マリア・マグダレーナ教区で洗礼を受けたと記録される。甘美な聖母像や愛らしい子どもの絵を数多く手がけ、セビーリャ派の中心人物となった。多くの弟子や追随者を生み、その影響は後の世紀まで及んだ。1683年にはザンドラルトが、彼の自画像の版画を添えた短い伝記を著書に収めている。
父ガスパル・エステバンは理髪師で外科医や瀉血師も務める裕福な人物で、母マリア・ペレス・ムリーリョは銀細工師の家系の出であった。ムリーリョは14人兄弟の末子であり、通称は母方の姓に由来する。9歳のとき、半年のうちに両親を相次いで失い、姉アナとその夫で理髪外科医のフアン・アグスティン・デ・ラガレスのもとに引き取られた。以後、1645年に結婚するまで同じ家で暮らしたという。父から受け継いだ貸家の権利は、生涯にわたって転貸による収入をもたらした。
若年期の記録はほとんど残っていない。1633年、15歳のときに親族とともにアメリカへ渡る許可を願い出たことは確認されるが、渡航を裏づける証拠はない。画家としては、母方の叔父の縁者であるフアン・デル・カスティーリョの工房で学んだ可能性が高いとされる。1638年から1640年ごろの作品とみられる初期作には、その影響が見える。マドリードに移りベラスケスの庇護を受けたという説と、これを否定する説があり、イタリアへ旅したとする説も疑わしいとされる。いずれにしても生涯の大部分をセビーリャ周辺で過ごした。1645年には、最初の大規模な注文となるセビーリャのフランシスコ会修道院の装飾事業を手がけた。
作風は、初期にはテネブリスモ(明暗を強く対比させる様式)を中心としていたが、1650年代以降はフランシスコ・エレーラ(子)の影響で色彩が豊かになった。1670年ごろからの晩年には、画面全体が薄もやに包まれたような夢幻的なスティロ・バポローソ(薄もやの様式)が際立つ。聖母マリアの純潔を表した『無原罪の御宿り』を何点も描き、セビーリャ美術館の『フランシスコ会士たちの無原罪の御宿り』に見られる夢見る乙女のようなマリア像と小天使たちは、次の世紀のロココ美術を先取りするかのようである。ぼろをまとった貧しい少年たちをありのままに描いた風俗画にも傑作があり、『乞食の少年』や『ブドウとメロンを食べる子供たち』はその例である。ほかにプラド美術館所蔵の『ロザリオの聖母』『善き羊飼い』『貝殻の子供たち』などが知られ、子どもの姿で表した善き羊飼いの図像も、彼の独創的な創案として広く模倣された。
子どもの絵が多い背景には、疫病で何人もの子を亡くしたことがあるともいわれる。1682年、カディスの修道院で制作中に足場から転落したことが原因で、4月3日に亡くなったと伝えられる。宗教画が中心でありながら風俗画も継続して手がけた点は、同時代のスペインの巨匠たちと異なり、国外でも最も知られ、親しまれたスペイン人画家の一人となった。多くの弟子や追随者を生み、その影響は後の世紀まで及んだ。1683年にはザンドラルトが、彼の自画像の版画を添えた短い伝記を著書に収めている。
同じ年に亡くなった人物
- Frederick of Hesse-Darmstadt (1682年)
- 顧炎武 (1682年没)
- ヨハン・ベッヒャー (1682年没)
- フリードリヒ (ヴュルテンベルク=ノイエンシュタット公) (1682年没)
- エヴリヤ・チェレビ (1682年没)
同じ地域に関係する人物
- ホセ・デ・ラ・セルナ (1832年没)
- アロンソ・ペレス・デ・グスマン (1615年没)
- ルイ・ゴダン (1760年没)
- ベルナルディーノ・リバダビア (1845年没)
- ラファエル・アルベルティ (1999年没)