HISTORICAL PERSON · 1683年没

ジャン=バティスト・コルベール

ルイ14世の財務総監として20年以上財政を担った。重商主義に基づき工業を興し、東インド会社などを設立し、ケベックへ大規模な植民団も送った。その政策はコルベルティスムと呼ばれる。

生涯
1683年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(ランス)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジャン=バティスト・コルベールは、17世紀のブルボン朝フランスの政治家である。1619年8月29日にランスで生まれ、ルイ14世のもとで財務総監を長く務めた。のちに「コルベルティスム」と呼ばれる重商主義的な経済政策の中心人物として知られる。

生家はランスの豪商の家系で、父ニコラはランスとパリで商人・銀行家として活動し、のちに国務評定官となった。イエズス会系の学院で学んだのち、1634年にリヨンの銀行家のもとで見習いに入り、その後パリの公証人のもとにも身を寄せたとされるが、若年期の経歴には不明な点が多い。1640年、21歳のとき父が戦争委員の官職を買い与え、陸軍担当の国務卿の下で軍隊の視察に当たった。1645年にはミシェル・ル・テリエの私設秘書となり、1649年に国王顧問官に任じられた。1648年にはマリー・シャロンと結婚し、莫大な持参金を得た。

転機は1651年に訪れた。ル・テリエの紹介でマザラン枢機卿に仕え、王国屈指の規模であったその私財の管理を、1661年までの10年間にわたって任された。この間に王国財政の仕組みを知り、海軍の問題にも触れていった。口数が少なくそっけない性格で、宮廷では好かれず、セヴィニェ夫人に「北風」とあだ名されたという。財政の管理に携わる中で、財務卿ニコラ・フーケの不正を告発する覚書を書き、1661年にマザランが没するとき、マザランはルイ14世にコルベールを登用するよう勧めたと伝えられる。フーケの失脚とともに実権を握り、1664年に財務総監となった(1665年とする資料もある)。以後20年以上にわたり財務を担当し、1669年には海軍大臣も兼ね、陸軍大臣ルーヴォワと対立した。このため一族を要職につけて派閥を作り、弟シャルルは侯爵に叙され、1679年に外務大臣となった。

財政では、1661年と1664年に債務の元利を削減し、法定金利を5.56パーセントから5パーセントへ下げ、政府と癒着した金融業者を摘発して赤字の解消に努めた。1681年には煩雑な間接税を整理し、徴税請負制を確立して直接税の軽減につなげた。重商主義の立場から金銀の保有を重んじ、輸入品への関税を重くし、外国人労働者の流入を禁じる一方で、産業と輸出を奨励した。パリのゴブラン工場などのマニュファクチュアを設立・保護し、外国人技術者を招いて、道路整備や運河の開削、タペストリー、ガラス、織物、陶磁器などの奢侈品の生産に力を注いだ。1664年にはフランス東インド会社やフランス西インド会社を設立し、ケベックには大規模な植民団を送って、ルイジアナへの植民も促した。貿易船を守る海軍の強化も進めた。1673年の商事王令は世界初の成文の商法ともいわれる。

文化面ではパリ天文台や科学アカデミーの設立に関わり、ペローやルブランらを援助した。これらはルイ14世を芸術の庇護者として印象づける狙いも持っていた。早朝5時半から執務し、宮廷では「大理石の人」と呼ばれた。1671年に寵妃ラ・ヴァリエールが修道院に出奔した際、自ら説得役を買って出て宮廷へ連れ戻したという。1683年9月6日、64歳で亡くなった。息子のセニュレー侯が海軍大臣を継いでいる。

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