HISTORICAL PERSON · 2019年没

アラン・ガルシア

ペルーの政治家。1985年から1990年と2006年から2011年の2度大統領を務めた。汚職事件への関与が疑われ、逮捕直前に自ら命を絶った。

生涯
2019年没
死亡地
ペルー共和国(リマ郡 / リマ)
出生地
ペルー共和国(リマ)
出典
世界地図
ペルー共和国(リマ郡)

伝記

アラン・ガブリエル・ルドウィグ・ガルシア・ペレスは、ペルーの政治家で、同国の大統領を二度(1985年から1990年、2006年から2011年)務めた。1949年5月23日、リマの中流家庭に生まれた。父はアメリカ革命人民同盟(アプラ党)の書記で、幼いころから党支持者の子供向けの学校に出入りし、党の創設者ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレから教えを受けたこともある。のちに党が非合法化されて父は投獄され、ガルシアが初めて父に会ったのは5歳のときだったともいう。14歳で創設者をたたえる最初の演説をしたとされ、雄弁家として知られた。

ペルー・カトリック大学を経てサン・マルコス大学で法学を修め、その後マドリード大学とパリ大学に留学して社会学を学んだ。スペインで憲法学の博士課程に進み、長く博士号を得たと述べていたが、2014年に大学の文書から修了していなかったことが示された。1978年に帰国して制憲議会議員に選ばれ、政治家としての活動を始めた。当時のアプラ党は右傾化していたが、ガルシア自身は党内で左派に位置していた。1982年に党の書記長となった。

1985年の大統領選挙には党の候補として立ち、第1回投票で45%を得て決選投票に進み、アルフォンソ・バランテスを破って当選した。36歳での就任はペルー政治史上最年少で、同党にとっても1924年の創設以来初の政権獲得だった。若々しい風貌から「ペルーのケネディ」と呼ばれ、就任当初は人気が高かった。しかし深刻な経済危機のなかで、銀行の国有化と対外債務の返済凍結という政策を断行し、特に後者は国際通貨基金の激怒を買って、ペルーは投資不適格国の烙印を押され、外国からの投資が途絶えた。政権末期には年率7000%以上のインフレが起こり、本人の汚職疑惑も加わった。任期満了時にはアルベルト・フジモリを支持して自身は終身上院議員となったが、のちに決別し、1992年のフジモリの自己クーデターの後に訴追されてコロンビアへ、さらにフランスへ亡命した。
2000年にフジモリが罷免されると、翌2001年に罪を許されて帰国した。同年の大統領選挙では決選投票でアレハンドロ・トレドに敗れたが、2006年に再び立候補し、決選投票でオジャンタ・ウマラを逆転して2度目の就任を果たした。1期目の反省から、2期目の内閣では16人の閣僚のうち党員を6人にとどめた。幼い子供への性犯罪者に死刑を認めることを公約とし、2006年9月に法案を議会に出している。2008年と2009年に来日し、2011年6月には、第2次大戦中に日系人が不当に逮捕され拘束されたことについて、ペルーの大統領として正式に謝罪した。2期目にペルーは安定した成長を遂げ、貧困が48%から28%に下がったとされる。一方、2009年には先住民居住地の資源開発を定めた法に抗議が激化し、非常事態を宣言して警察を投入した。6月5日のバグアでの衝突の後、問題の2法は廃止された。

再選は憲法で禁じられており、2011年の任期満了で退任した。2016年の総選挙では5位にとどまった。2014年に建設大手オデブレヒト社の贈賄疑惑(オペレーション・カー・ウォッシュ)が浮上すると、リマの電車工事をめぐる裏金疑惑で捜査対象となった。2018年11月に出国禁止命令が出され、同日夜にウルグアイ大使館へ亡命を申請したが認められなかった。2019年4月17日、逮捕のために警察が来た際に拳銃で頭を撃ち、搬送先の病院で死亡した。

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