HISTORICAL PERSON · 2019年没

ボブ・ホーク

オーストラリアの政治家で第23代首相。労働党所属の首相として史上最長の任期を務め、在任中にアジア太平洋経済協力を提唱したことで知られる。

生涯
2019年没
死亡地
オーストラリア連邦(ニューサウスウェールズ州 / シドニー)
出生地
オーストラリア連邦(ボーダータウン)
出典
世界地図
オーストラリア連邦(ニューサウスウェールズ州)

伝記

ボブ・ホーク(ロバート・ジェイムズ・リー・ホーク)は、1929年12月9日に南オーストラリア州ボーダータウンで生まれたオーストラリアの政治家である。会衆派教会の聖職者だった父と、教師だった母の間に生まれた。兄ニールは17歳で髄膜炎のため亡くなり、その後、母は息子の運命に対して強い信念を抱くようになったとされ、それが生涯にわたるホークの強い自信につながったとされる。15歳のころには、いつか首相になると友人に語っていたという。17歳でオートバイ事故により数日間危篤となり、この経験が才能を無駄にすまいと考える契機になったとされる。1947年、18歳で労働党に入党した。

西オーストラリア大学で学び、1952年に文学士と法学士の学位を得て、同年には学生自治会の会長も務めた。翌年ローズ奨学金を得てオックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジに進み、哲学・政治・経済を学んだ。在学中にはビールの早飲みで世界記録を樹立したという逸話もある。後に妻となるヘイゼルとはパースの教会で出会い、1956年に結婚した。同年、オーストラリア労働組合評議会に研究員として加わり、賃金裁定の担当として頭角を現して、1969年に労働組合評議会の議長に選ばれた。この職を1980年まで務め、世間での知名度を高めた。1973年からは労働党の全国執行部の議長も務めている。

1980年に労働組合評議会と党の役職を退いて政界入りを表明し、同年の連邦選挙でビクトリア州ウィルズ選挙区から下院議員に当選した。1983年、ビル・ヘイデンに代わって無投票で労働党党首となり、その約5週間後の総選挙でマルコム・フレーザー率いる保守連合に大勝して、3月11日に第23代首相に就任した。その後も1984年、1987年、1990年の選挙で勝利し、労働党として最も選挙で成功した首相となった。

ホーク政権は、経済界・政府・労働組合が協力する姿勢を特色とし、経済サミットや税制サミット、アコードと呼ばれる協定などを通じて政策を進めた。規制緩和、関税や補助金の大幅削減、豪ドルの変動相場制への移行、国民皆保険のメディケア導入、全労働者を対象とする退職年金制度の開始などを実施した。性差別禁止法を制定し、「アドバンス・オーストラリア・フェア」を国歌と定め、南極での鉱業を禁じる交渉を行い、英国の残る権限を除くオーストラリア法の成立にも立ち会った。アジア太平洋経済協力の提唱でも知られる。国営企業の維持を重んじる立場ではなく、カンタス航空などの民営化も行った。

1991年6月に財務相ポール・キーティングから党首選で挑戦を受けたが退け、約半年後の2度目の挑戦で僅差で敗れ、12月20日に首相の座を譲った。その後は議員を引退し、実業や慈善活動に携わった。首相在任は労働党で最長、オーストラリア全体ではロバート・メンジーズ、ジョン・ハワードに次ぐ3番目の長さである。1984年には支持率75%を記録し、歴代首相の中でも上位に評価されることが多い。競馬を趣味とし、退任後は来日して北海道の牧場を訪れ、1992年にはテレビ東京の競馬中継にゲスト出演している。2012年に旭日大綬章を受け、2003年には立教大学から名誉教授号を贈られている。2019年5月18日の総選挙で労働党への支持を呼びかけていたが、その2日前の5月16日に自宅で死去した。89歳だった。

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