伝記
ヨハネス・ヘヴェリウスは、1611年1月28日にグダニスク(ダンツィヒ)で生まれ、1687年1月28日に満76歳で没したポーランドの天文学者である。生まれた日と亡くなった日が同じであった。ポーランド語ではヤン・ヘヴェリウシュ、ドイツ語ではヨハネス・ヘーヴェルとも呼ばれ、月の地形学の創始者とされる。ボヘミアから移住して醸造所を営む家に生まれた。
若いころは商いよりも天文学や数学に関心を寄せ、両親からは2年間ギムナジウムに通うことを許され、そこで教師のペーター・クリューガーに出会った。クリューガーは生涯にわたって影響を与え、天文学へ導いた。ヘヴェリウスはさらに製図や機械、レンズ研磨も学び、これらの技術なしにその業績は成り立たなかった。両親は彼をライデンに送って法学を学ばせ、数学や自然科学の講義も受けさせた。続いてイギリスとフランスを旅し、ガッサンディ、メルセンヌ、キルヒャーらと交流を持った。1634年に両親に呼び戻されてダンツィヒに帰り、イタリアでガリレイらに会うことはできなかった。以後の5年は一人息子として家業に励み、醸造家となって市参事会員も務め、商人の娘カタリーナ・レベシュケと結婚した。
1639年、死の床にあったクリューガーから、才能を無駄にせず、まず日食を観測するよう頼まれた。ヘヴェリウスはその約束を守って日食を観測し、クリューガーはその5日後に亡くなった。以後は時間と財産を天体の観測に注いだ。1641年に自宅の屋根の上に観測所を築き、1642年から1645年には太陽の黒点を観測した。この研究はマウンダー極小期を確かめるうえでも重要とされる。4年を費やして月の地形を調べ、1647年に3枚の地図からなる月面図集『セレノグラフィア』を出版した。月面の地名には地球上の地名を用い、月の秤動を発見したことも発表した。これは望遠鏡による観測史上、最も早い月面図の代表の一つである。ただ後世には、リッチョーリの命名法が主に残ったとされるが、彼が付けた地名のいくつかも現在まで使われている。
彗星の観測でも成果を挙げ、1652年、1661年、1672年、1677年に4つの彗星を発見した。1661年の彗星はのちに池谷・張彗星と同定されている。1668年には観測をまとめた『コメトグラフィア』を出版した。1663年にエリザベータ・クープマンと再婚し、若い妻は観測の協力者となった。1664年にはドイツ人として初めて王立協会のフェローに選ばれた。1673年には、レンズの直径15cm、筒の長さが45mにもなる空気望遠鏡を作って公開観測を行った。風や震動の影響を受けやすく観測はうまくいかなかったようだが、1682年のハレー彗星の観測では成果があった。1679年9月26日に火災で自宅の観測装置と書物を失い、ろくぶんぎ座はその装置を偲んで設定された。翌年12月のキルヒ彗星の観測には間に合ったが、災禍の精神的な衝撃から健康を損ない、没したとされる。こぎつね座、こじし座、たて座、とかげ座、やまねこ座、ろくぶんぎ座、りょうけん座の7つの星座は現在も使われている。妻は夫の没後の1690年に星表を刊行し、最初の女性天文学者と見なされる。
同じ年に亡くなった人物
- フランソワ・ド・クレキ (1687年没)
- ラウラ・マルティノッツィ (1687年没)
- Countess Palatine Maria Eufrosyne of Zweibrucken (1687年没)
- ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール (1687年没)
- ジョージ・ヴィリアーズ (第2代バッキンガム公) (1687年没)
同じ地域に関係する人物
- エルトムーテ・フォン・ブランデンブルク (1623年没)
- Anna Przybylska (2014年没)
- ゲオルク・フォン・デア・マルヴィッツ (1929年没)
- ハンス・カール・フリードリヒ・フォン=マンゴルト (1925年没)
- パヴェウ・ヒュレ (2023年没)