HISTORICAL PERSON · 1687年没

ウィリアム・ペティ

イングランドの医師・測量家・経済学者で、労働価値説を初めて唱えて政治算術派の先駆となった。オックスフォード大学の解剖学教授やアイルランドの軍医総監を務め、同地で科学的な測量を指揮した。

生涯
1687年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(ラムジー)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ウィリアム・ペティは、1623年5月26日に生まれ、1687年12月16日に没したイングランドの医師、測量家、経済学者である。清教徒革命から王政復古期にかけて活動し、労働価値説を最初に唱え、政治算術派の先駆となったことから、古典派経済学と統計学の始祖ともいわれる。オックスフォード大学の解剖学教授やアイルランドの軍医総監を務めた。子孫はホイッグ党と自由党の名門ランズダウン侯爵家として今も続く。

ハンプシャーのロムジーに織元の第3子として生まれ、上の兄姉が早くに亡くなったため、事実上の長男として育った。早熟で、グラマースクールでラテン語とギリシャ語を身につけ、職人たちの仕事を見つめて過ごしたという。14歳で商船の水夫となったが、10か月の航海ののち足をくじいたことからフランスのカーンに置き去りにされた。そこでイエズス会のカレッジに学び、1640年頃に帰国して、1643年にオランダへ渡るまで海軍で勤務した。オランダではユトレヒト、ライデン、アムステルダムで医学を研究し、1644年に海軍で稼いだ金でライデン大学の医学部に入学した。ジョン・ペルに代数学を学び、その助手も務めた。1645年末ごろにパリへ移ると、ペルの紹介でトマス・ホッブズの知己を得て、メルセンヌを中心とする研究サークルに加わった。ホッブズとは光学や解剖学で協力し、数学的論証を重んじる姿勢に影響を受けた。

1646年に帰国し、父が1644年に亡くなっていたため織元を継いだが、複写器の販売のためロンドンへ移った。販売は失敗に終わったが、ベーコンの学徒たちと交わり、のちの王立協会の前身のひとつとなる集まりに加わった。親友ジョン・グラントともこの頃に知り合ったと考えられている。サークルの一部の人々がオックスフォードに移ると後を追い、1649年3月に医学博士の学位を取得、1651年1月には解剖学講座の教授となった。絞首刑に処された少女の蘇生に成功するなど、解剖学者、医者としての名声は高かった。

1652年9月、アイルランド派遣軍の軍医総監として渡海し、以後7年間をそこで過ごした。測量総監ウォースリーの方法を批判して自らの指揮による測量を提案し、これが採用されて、1655年2月から科学的な測量が実施された。没収された土地は測量の結果に基づいて派遣軍に出資した各層に分配され、ペティは1656年に没収地分配委員会の責任者となった。兵士の給与債務証書を買い集め、ケリー県などで広大な土地の領主ともなった。しかしクロムウェル死後の共和国末期に不正を告発され、すべての公職から追放されてロンドンに戻った。

王政復古後はチャールズ2世の庇護を受け、1661年にナイトに叙された。王立協会のフェローとして1673年に副会長に選ばれ、1684年にはダブリン理学協会の創立に尽力した。船底を二重にした双底船の建造に熱心で、1663年に国王の船と競って勝ったが、やがて嵐で行方不明になった。経済学の主要な著作はすべてこの時期に書かれ、『租税貢納論』『賢者には一言をもって足る』『政治算術』『アイルランドの政治的解剖』などがある。このうち『賢者には一言をもって足る』『政治算術』『アイルランドの政治的解剖』は没後に出版された。晩年はアイルランドの領地経営にも努め、1685年にロンドンへ戻り、1687年12月に64歳で没した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物