HISTORICAL PERSON · 1687年没

ジャン=バティスト・リュリ

イタリア生まれのフランス盛期バロックの作曲家。ルイ14世の寵愛を受け、モリエールとのコメディ=バレで成功し、王立音楽アカデミーを握ってフランス語オペラを確立した。

生涯
1687年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
イタリア共和国(フィレンツェ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジャン=バティスト・リュリは、フランス盛期バロック音楽の作曲家である。1632年11月28日にフィレンツェで生まれ、本来はジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリというイタリア人であったが、1661年にフランス国籍を取得した。ルイ14世の宮廷楽長として、また寵臣として、貴族社会で権勢をほしいままにした。

生家はフィレンツェの粉挽き職人で、音楽の専門教育を含めて正規の教育はほとんど受けず、ギターやヴァイオリンを自ら習い覚えたという。1646年にギーズ公の公子ロジェに見出されてフランスへ連れられ、グランド・マドモワゼルのもとで下男として奉公した。その才能を認められて正式な音楽教育を受けたが、主人を嘲る詩を書いて解雇された。1652年末から翌年初めにかけて『王の夜のバレ』に出演すると、国王に大いに気に入られ、国王付き器楽曲作曲家に任じられた。宮廷の弦楽合奏団「24のヴィオロン」に加わり、踊り手としても王と同じ場面で踊るなど親密な関係を築いたが、制御しがたいこの楽団を嫌い、勅許を得て自前の楽団「プティ・ヴィオロン」を結成し、1656年の仮面舞踏会では全曲を一人で作曲した。1661年にルイ14世が親政を始めると宮廷音楽監督に任命され、同年12月にフランスへ帰化した。翌1662年には同僚ミシェル・ランベールの娘マドレーヌと結婚し、6児(10児とも)をもうけた。

1664年からはモリエールの台本によるコメディ=バレで大成功を収め、『無理強いの結婚』や『町人貴族』などが王室の劇場で上演された。1670年ごろからモリエールとの仲は険悪になり、一方でリュリは、ペランの台本とカンベールの作曲によるフランス語のオペラの成功を見て、歌劇に目を向け直した。1672年にペランから王立音楽アカデミーの上演権を買い取り、建築家ヴィガラニと提携して劇場を設けた。1673年初演の音楽悲劇『カドミュスとエルミオーヌ』は大成功で、王自ら観劇に訪れた。同年モリエールが没すると、パレ・ロワイヤルの使用権を獲得し、他の劇団の出演者や編成を制限して大規模作品の上演を独占した。強引な手法は批判や暴漢による襲撃も招いたが、王の支援を受けて叙情悲劇を次々に作曲した。1677年の長男の洗礼式では王自らが代父となり、1681年には国王の秘書官に任命されて叙爵された。台本の入手先には、それまで不仲だったラ・フォンテーヌやラシーヌも加わった。

しかし放蕩でも悪名高く、1685年に王の小姓との関係が王の耳に入ると不興を買い、翌年の作品は宮廷で上演されず、パレ・ロワイヤルからの立ち退きも求められた。1687年1月8日、王の病気快癒を祝う『テ・デウム』を指揮した際、拍子を取る重い杖で誤って足を強打し、傷口から壊疽を起こして、3月22日に急死した。最後のオペラ『アシールとポリュクセーヌ』は未完に終わった。臨終の床で「いざ死すべし、なんじ罪びとよ」と書き残したと言い伝えられる。

リュリは通奏低音を推進力とする典型的なバロック様式を築き、フランス風序曲の構成を確立して、その後のフランス音楽に深い影響を残した。急速な動きの舞曲を採り入れて宮廷舞曲の様式を変え、弦楽器の弱音器の指示を楽譜に書いたのも、一説では彼が最初とされる。

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