HISTORICAL PERSON · 1688年没

ジョン・バニヤン

イギリスの教役者、文学者で、『天路歴程』の著者として知られる。ほとんど教育を受けず、鋳掛屋の家業を手伝った後、読んだ信仰書に影響されて信仰の道に進んだ。

生涯
1688年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(エルストー)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ジョン・バニヤンは、イギリスの教役者であり文学者である。1628年11月28日に生まれ、1688年8月31日に没した。『天路歴程』の著者として知られる。

イングランドのエルストー教区にあるハローデン、ベッドフォードの南東1マイルの地で生まれた。受けた教育はごくわずかで、父の稼業である鋳掛屋を手伝い、1644年から1647年までニューポート・パグネルの陸軍に入った。1649年に信仰の厚い若い娘と結婚した。彼女の持参金は本2冊だけだったといい、バニヤンはこれらの本に影響されて信仰の人生へ進んだ。1655年に妻が没するまでエルストーに住み、その後ベッドフォードへ移り、1659年に再婚した。自叙伝『罪人のかしらに溢れる恩寵』では若い頃を放蕩生活だったと記しているが、他の人よりとくに悪党であったという証拠は見られず、具体的に挙げた重大な悪行は冒瀆であり、ほかには娯楽のダンスと教会の鐘を鳴らすことくらいである。旺盛な想像力が不信心や冒瀆の行いを頭の中で生々しく描かせ、彼を苦しめたという。「許されない罪」への好奇心に悩み、「キリストを売れ」と迫る声や恐ろしい幻覚にも苦しめられた。精神的な葛藤の末にそこから抜け出し、ゆるぎない信仰者となった。1653年にベッドフォードのバプテスト教会に入り、ウース川で浸礼を受け、1655年には執事となって伝道を始め、最初から成功を収めた。

1656年から1657年には、フレンド派(クエーカー)の教えに強く反対し、その指導者たちと書面で論争した。バニヤンが福音の真理を論じた書でクエーカーの信条を攻撃すると、クエーカー教徒エドワード・バーローが反論し、のちに指導者ジョージ・フォックスも論争に加わった。1658年、免許なしで伝道したかどで起訴されたが、1660年11月にベッドフォードの監獄に収容されるまで、伝道を続けた。禁固は当初3か月だったが、彼が反抗したか、伝道をやめることを受け入れなかったため、12年近くに延び、チャールズ2世が信教自由令を出した1672年1月まで続いた。同月、彼はベッドフォード教会の牧師となった。1675年3月、信教自由令が撤回されたことで布教のかどで再び逮捕され、ウース川にかかる石橋の上の監獄に入れられたが、6か月で釈放された。高い評判のため、その後は逮捕されなかった。

『天路歴程』は2部構成で、第1部は1678年、第2部は1684年にロンドンで出版された。執筆は最初の収監中に始まり、おそらく2度目の収監中に終わったと考えられている。プロテスタント世界で最も多く読まれた宗教書となり、非常に多くの言語に訳され、伝道団は聖書に次いでこれを最優先で翻訳するのが普通だったという。作品の魅力は、優しさ、趣のあるユーモア、力強い言葉遣いと、強い想像力が登場人物や場面を現実そっくりに作り上げる物語の面白さにあるとされる。ほかに、架空の伝記『バッドマン氏の生涯と死』(1680年)と寓話『聖戦』(1682年)があり、生涯に60冊の本と小冊子を書いた。歴史家マコーリーは、17世紀後半のイングランドで優れた想像力を持つ心は、『失楽園』を作った心と『天路歴程』を作った心の2種類だけだと評した。

ロンドンへ向かう途中、濡れたのが原因で重い風邪をひき、1688年8月31日、スノーヒルの友人の家で発熱のため死去した。墓はロンドンのバンヒル墓地にある。日本では、1946年1月1日の詔書にある「失意ノ淵ニ沈淪」の句が、英文で起草した幣原喜重郎首相の、『天路歴程』第1部の一節を踏まえた表現を訳したものだった。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物