伝記
シャルル・ル・ブランは、17世紀フランスの画家、室内装飾家、美術理論家である。1619年2月24日にパリで洗礼を受け、1690年2月12日にパリの私邸で病没した。ルイ14世の第一画家として、ヴェルサイユ宮殿やルーヴル宮殿などの内装を担当し、王立絵画・彫刻アカデミーとゴブラン工場の運営にも深く関わって、当時のフランスの工芸と美術に強い影響を与えた。
生家はパリのサン・マルタン通りにあり、父ニコラは親方の彫刻家、母ジュリエンヌ・ル・ブレは書家の娘だった。シャルルは三番目の子で、のちに画家となる弟ガブリエルもいる。母方の伯父アンドレ・ル・ブレは、宰相ピエール・セギエの子らの習字の教師で、この縁でセギエにも推薦されたという。幼い頃から造形の才を示し、9歳で粘土や木を彫ったと伝わるが、彫刻の道は継がず、素描と絵画に傾いた。父からは絵そのものよりも、同業組合の仕組みについての知識を多く得ており、これがのちのアカデミー創設に役立った。1632年頃にフランソワ・ペリエに学んで、イタリアの大規模なバロック絵画に触れ、13歳の頃には父の肖像を描いたとされる。1634年にはセギエによりシモン・ヴーエの工房へ預けられた。1638年には宮廷画家としてリシュリューから最初の注文を受けたが、1642年にセギエの経済的な援助でプッサンとともにローマへ渡り、4年間プッサンのもとで最先端の美術を学んだ。
1646年に帰国すると、他の宮廷美術家とともに、中世から続く同業組合の既得権に対抗する拠点として、1648年に王立絵画・彫刻アカデミーを設立した。1658年からは、建築家ルイ・ル・ヴォー、造園家ル・ノートルとともに、財務卿ニコラ・フーケのヴォー=ル=ヴィコント城の建設に着手し、1661年に完成させた。この城での仕事は、のちのルイ14世様式の始まりとされる。ルイ14世はこの仕事と、依頼したアレクサンドロス大王の歴史画を賞賛し、1664年にル・ブランは第一画家となり、爵位と年12,000リーブルの年金を与えられた。王は彼を古今で最も偉大なフランスの芸術家と宣言した。フーケの失脚後、三人はヴェルサイユ宮殿を手がけ、ル・ブランはとくに鏡の間の装飾で知られる。1664年から1665年と1673年に手がけた歴史画は、ルーヴル美術館に所蔵されている。
1660年にはコルベールとともにゴブラン工場の設立に貢献して責任者となり、この工場は、タペストリーだけでなく王宮に必要な家具什器を作る場となった。1661年にコルベールがアカデミーの保護副会長となり、美術家をギルドに代わって統べ、絶対王政と重商主義政策に奉仕する機関へ再編すると、1663年にル・ブランを学長に推した。ル・ブランはアカデミズムの基準を作り、1666年にはローマにアカデミー・ド・フランスを設立した。コルベールの死後、後を継いだルーヴォワに冷遇されたが、王の支持は続き、アカデミーの学長に再選された。彼が指導した工場とアカデミーは、フランスの工芸と美術界全体に及んだ。彼はルイ14世様式の生みの親とされ、その影響は死後も長くフランス人の趣味に及んだ。
同じ年に亡くなった人物
- Gregorio Carafa (1690年)
- フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯) (1690年没)
- 惲寿平 (1690年没)
- ルイーゼ・エリーザベト・フォン・クールラント (1690年)
- アブラハム・ファン・ベイエレン (1690年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・ピエール・ボワイエ (1850年没)
- ウィリアム・ナイランダー (1899年没)
- エミール・クラペイロン (1864年没)
- マルセル・プショー (1946年没)
- ハンス・ケルル (1941年没)