伝記
ロバート・ボイルは、1627年1月25日にアイルランド南部のウォーターフォード県リズモアに生まれ、1691年12月31日にロンドンで没した自然哲学者、化学者である。「気体の体積は圧力に反比例する」というボイルの法則で知られ、著書『懐疑的化学者』は化学という分野の基礎を築いたとされる。その研究は錬金術の伝統を根幹としながらも、近代化学の祖と呼ばれることが多い。
初代コーク伯爵リチャード・ボイルとキャサリン・フェントンの七番目の息子で、14番目の子であった。3歳のときに妹マーガレットが生まれ、その産褥で母を失った。兄たちと同じく幼いころは現地の一家に里子に出され、アイルランド語を覚えた。1635年10月に8歳でイートン・カレッジに送られ、3年を過ごしたのち、1638年に兄フランシスとスイス人の家庭教師とともに大陸へ旅立った。ジュネーヴ留学中に宗教的な回心を体験し、1641年にはイタリアを訪れて冬をフィレンツェで過ごし、ガリレオ・ガリレイの『天文対話』を読んでその業績を学んだ。パリのメルセンヌの研究サークルにも加わったという。
1644年にイングランドへ戻った。その間にアイルランドでは反乱が起き、イングランドでも清教徒革命が始まって、兄ルイスが戦死し、1643年には父も亡くなった。姉キャサリン夫妻の保護を受け、父の遺産としてドーセットのスタルブリッジの荘園とリムリック県の土地を受け継いだ。以後は科学的研究に生涯を捧げ、姉夫婦の紹介で知り合ったウィリアム・ペティらとともにロンドンの理学協会に加わった。1652年にはアイルランドに移ったが、研究が進まず、手紙に化学の器具も手に入らない野蛮な国だと記している。落馬事故の後は弱視に悩み、実験の記録を他人に書かせ、助手や技師に実験を指示する方法をとった。
1654年にオックスフォードへ移り、ジョン・ウォリスらの会合に参加した。ここでロバート・フックと知り合い、この会合が王立協会の発端となった。1657年にゲーリケの空気ポンプを知ると、フックを助手として自分でも製作を始め、1659年に完成させて空気の実験を行った。その成果を1660年に『空気の弾性に関する物理力学的新実験』にまとめた。批判者のイエズス会士フランシス・ラインに反論する中で、ボイルの法則に初めて言及した。法則を最初に定式化したのは別の人物の1661年の論文で、ボイルはその論文を引用しつつ作者を取り違えていたとされる。大陸でマリオットが定式化者とされることもあるが、その発表は1676年である。1663年に王立協会が発足すると設立協議会の一員となった。1680年には会長に選ばれたが、就任時の誓いにためらいを覚えて辞退した。1668年にロンドンへ移って姉夫婦の家に身を寄せた。
ボイルは物質の基本構成要素として元素の存在を認め、混合物と化合物を区別し、成分を調べる方法を「分析」と名付けた。化学を錬金術や医術の付属物ではなく、物質の構成を探究する科学と考えた。一方で金属の変質を信じ、1689年に錬金術による貴金属の増殖を禁じた法の廃止に重要な役割を果たしたとされる。神学にも時間を割き、1665年に国教会の聖職者になる条件で提示されたイートン・カレッジの校長職を断った。東インド会社の重役として宣教師への寄付や聖書の翻訳に資金を出し、1680年から1685年にはアイルランド語聖書の印刷に私財を投じた。1689年から健康が衰え、1691年12月3日に姉が亡くなると、後を追うように31日に64歳で死去した。麻痺が原因とされる。
同じ年に亡くなった人物
- 浅井了意 (1691年没)
- George Etherege (1691年)
- アレクサンデル8世 (ローマ教皇) (1691年没)
- フランソワ=ミシェル・ル・テリエ (1691年没)
- アイザック・ド・バンスラード (1691年)
同じ地域に関係する人物
- ラホス・ビロ (1948年没)
- トマス・ゲイジ (1787年没)
- ジョン・セル・コットマン (1842年没)
- ジョージ・ハッケンシュミット (1967年没)
- リチャード・ライト (音楽家) (2008年没)