伝記
小柴昌俊は、1926年9月19日に生まれ、2020年11月12日に亡くなった日本の物理学者・天文学者である。ニュートリノ天文学を開拓し、2002年にノーベル物理学賞を受けた。
父は第40師団歩兵第236連隊の最後の連隊長を務めた小柴俊男大佐、母は農家の末娘はやで、長男として愛知県豊橋市に生まれた。1歳のころ東京の西大久保へ移り、のち横須賀の小学校を卒業して、神奈川県立横須賀中学校に入った。幼いころは陸軍軍人か音楽家を志していたが、12歳で小児麻痺にかかってその二つの夢を諦めた。入院中に担任から贈られたアインシュタインの著作『物理学はいかに創られたか』が、物理学者を目指すきっかけになったという。旧制第一高等学校では成績が振るわなかったが、寮の風呂場の裏で自分を貶める教師の雑談を聞いて一念発起し、同室の朽津耕三を家庭教師に猛勉強を始めて、1948年に東京大学理学部物理学科に入った。「やれば、できる」という言葉は、この体験から生まれたとされる。
大学の成績は優れなかったが、朝永振一郎に推薦状を書いてもらい、フルブライト奨学生として1953年にロチェスター大学の博士課程へ留学した。留学生の手当ては少なく生活は苦しかったが、博士号を取れば給与が倍増すると聞き、1年8か月で取得した。これは同大学での最短記録とされる。1955年にシカゴ大学の研究員となり、1959年に一時帰国して慶子と結婚した。仲人は朝永振一郎夫妻だった。1962年に帰国して東京大学原子核研究所の助教授になり、1970年に東京大学理学部教授に就任した。1974年には理学部内に高エネルギー物理学実験施設を設立し、施設長を務めた。
1979年、陽子崩壊の検出を主な目的として、岐阜県の神岡鉱山跡にカミオカンデの建設を始めた。1983年に完成して観測を開始し、1987年2月には超新星SN1987Aから飛来したニュートリノを観測した。太陽系の外で生じたニュートリノを捉えたのは史上初であった。同年3月に東京大学を定年退官し、東海大学理学部教授となった。この業績で1987年に仁科記念賞、1989年に日本学士院賞を受け、2000年にレイモンド・デイヴィスとウルフ賞を、2002年に同じくデイヴィスとノーベル物理学賞を受賞した。受賞理由は「天体物理学とくに宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献」である。1997年には文化勲章を受章し、2003年には勲一等旭日大綬章を受けた。
教え子の戸塚洋二はノーベル賞の有力候補とされたが2008年に亡くなり、同じ弟子の梶田隆章が2015年にノーベル物理学賞を受けた。2003年にはノーベル賞の賞金などを基に平成基礎科学財団を設立して理事長となり、科学の啓蒙に取り組んだ。趣味はクラシック音楽で、モーツァルトを愛好した。研究室の学生たちからは「親分」と呼ばれた。自らを「奇人学者」と称し、「現場主義の研究者」の立場を貫いた。東京大学卒業時の成績証明書を公開したことがあり、16教科のうち「優」は物理学実験の2つだけだった。そのため東京大学在任中は、担当科目の試験の受験者全員に「優」を与えたという。大学院生のころには栄光学園で臨時講師を務め、「この世に摩擦がなければどうなるのか」と生徒に問うた。東京大学本郷キャンパスの理学部1号館には、受賞を記念して「小柴ホール」が設けられた。2020年11月12日、老衰のため94歳で亡くなり、同日付で正三位に叙された。
同じ年に亡くなった人物
- 藤原啓治 (2020年没)
- ハンス=ヨッヘン・フォーゲル (2020年没)
- ブレント・スコウクロフト (2020年没)
- 志村けん (2020年没)
- ジョン・T・ホートン (2020年没)