伝記
フリーマン・ダイソンは、1923年12月15日にイギリスのバークシャー、クロウソーンで生まれ、2020年2月28日に没した理論物理学者・宇宙物理学者・サイエンスライターである。後にアメリカ合衆国へ帰化した。父ジョージは王立音楽大学の学長もつとめた作曲家でオルガン奏者、母は法学部卒で、のちに弁護士となった女性である。
幼い頃から数学の才能を示し、百科事典を相手に計算をして遊んだ。天文書やジュール・ヴェルヌの空想科学小説にも熱中し、9歳で、小惑星エロスの月への衝突を扱う未完のSF小説を書いたという。1936年から1941年まではウィンチェスター・カレッジで学んだ。15歳のとき、微分方程式が科学で重要だと知り、手持ちの金で買えた「微分方程式」の本を、クリスマス休暇に毎日朝6時から夜10時まで解き続けて700題をこなしたと伝わる。数論の古典がロシア語版しかないことに苛立ち、独学でロシア語を学んで英訳したという話もある。
第二次世界大戦中は、ガンジーの影響から良心的兵役拒否も考えたが、1943年7月に英国空軍のオペレーションズ・リサーチを担当する部署に入った。爆撃作戦の数理モデル化と統計的研究にあたり、爆撃隊員の安全性は出撃回数と関係がないこと、戦略爆撃が非効率であることなどを見いだした。だが軍内部の定説に反する結果は黙殺され、本人は才能を浪費したと感じていたようである。後年、日本への原爆投下の際には正直安堵したと語っている。一方で、自軍の被害を出す戦略への罪悪感から、息子が生まれてからは悪夢に度々うなされたとされる。
戦後はケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで数学の学士号を取り、1946年から1949年まで同カレッジのフェローをつとめ、1947年には数論の論文を2本公表した。同じ1947年に物理学へ関心を移し、アメリカのコーネル大学へ留学して、師ハンス・ベーテからラムシフトに関する理論問題を任された。1948年、旅行中のバスの中で、シュウィンガーとファインマンが過程は違っても同じ答えに向かっていることに気づいたという。ダイソンはファインマン・ダイアグラムを数式として整え、他の物理学者にも分かりやすい形にし、あまり良い顔をしなかったオッペンハイマーを説得してその有用さを認めさせた。のちに「朝永=シュウィンガー=そしてファインマンの放射理論」の論文を発表し、量子電磁力学の完成に大きく寄与した。
1951年からコーネル大学教授、1953年からプリンストン高等研究所教授をつとめ、1952年には王立協会フェローに選ばれ、1957年にアメリカへ帰化した。1960年には恒星の全エネルギーを利用するダイソン球の概念を発表し、若くしてダイソン方程式も世に出していた。また、彗星を覆う巨大植物など壮大な着想でSFにも影響を与えた。ランダム行列の研究は、リーマン予想の研究を活発にする契機にもなった。ローレンツメダルやマックス・プランク・メダル、ウルフ賞、テンプルトン賞など多くの賞を受けた。映画『2001年宇宙の旅』にはコンセプト協力で関わり、日本の大江健三郎とも親交があった。ノーベル賞の有力候補に何度も挙がったが受賞には至らず、本人は賞には無関心だったという。2020年2月28日、転倒の合併症によりプリンストンの病院で96歳で死去した。息子は著名なカヌー製作者、娘はインターネット名称資源管理機構の会長をつとめた作家である。
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