HISTORICAL PERSON · 2020年没

ハビエル・ペレス・デ・クエヤル

ペルーの外交官で、第5代国連事務総長。アメリカ大陸出身者として初めて就任し、1982年から1991年まで務め、退任後はペルーの首相となった。

生涯
2020年没
死亡地
ペルー共和国(リマ郡 / リマ)
出生地
ペルー共和国(リマ)
出典
世界地図
ペルー共和国(リマ郡)

伝記

ハビエル・ペレス・デ・クエヤルは、1920年1月19日にペルーの首都リマで生まれ、2020年3月4日に同地で亡くなった外交官、政治家である。第5代国際連合事務総長を1982年1月1日から1991年12月31日まで務め、アメリカ大陸出身者として初めてこの職に就いた。退任後はペルーの第28代首相も務めた。死去したのは100歳45日のときで、国連事務総長経験者としても、ペルー首相経験者としても最高齢だった。

生家はスペイン人を祖先とする裕福な家で。リマのサン・アグスティン学院で学び、ペルー・カトリカ大学で法学を修めた。1940年に外務省に入り、1944年には在フランスのペルー大使館で書記官を務めた。1947年に最初の妻イヴェット・ロバーツと出会って結婚し、パリ滞在中に息子フランシスコ、ロンドン滞在中に娘アゲダ・クリスティーナが生まれた。その後、イギリス、ボリビア、ブラジルの大使館を経て、スイス、ソ連、ポーランド、ベネズエラの各国で大使を務めた。1946年にロンドンで開かれた第1回国連総会にはペルー代表団の一員として加わり、1971年から1975年までペルーの国連常任代表を務めた。1973年と1974年には安全保障理事会に出席し、1974年7月のキプロスでの騒乱の際には議長だった。1975年9月にキプロス問題の特別代表に任じられ、1977年12月まで務めた。この間の1975年10月29日に、2番目の妻となるマルセラ・テンプル・セミナリオと結婚している。

1979年に国連の事務次長(特別政治問題担当)に任命され、1981年4月からはアフガニスタン情勢に関する事務総長特別代表も兼ねて、パキスタンとアフガニスタンを訪れた。同年12月、クルト・ヴァルトハイムの後任として事務総長に選ばれ、1982年1月に就任した。就任当時は冷戦の緊張が高まった時期にあたり、国際外交と国連、安全保障理事会の役割を取り戻すうえで重要な働きをしたとされる。1986年10月に再選を果たした。

任期中はフォークランド紛争の調停に当たったが、紛争を止めることはできなかった。中央アメリカの平和と安定の推進にも取り組み、ナミビアの独立交渉や、西サハラにおけるモロッコとポリサリオ戦線の紛争、キプロス問題、クロアチアをめぐるユーゴスラビアでの戦いなどの仲裁にも当たった。再選後はイラン・イラク戦争の停戦を実現させたとされ、1986年にはフランスとニュージーランドの間で起きたレインボー・ウォーリア号事件で国際仲裁にあたった。1989年にはナミビアの独立を見届けた。1991年の湾岸戦争の終結に向けた交渉も行い、任期最後の日にはエルサルバドルの政府と反政府勢力の和平合意をまとめた。米ソの支持で3期目も確実とされながら、再選を望まなかった。1982年8月には広島を訪れ、核軍縮のメッセージを世界に発している。

退任後は1995年のペルー大統領選挙に出馬した。得票は第2位だったが、現職のアルベルト・フジモリが64%の得票で1回目の投票で再選された。2000年にフジモリが辞任すると、同年11月から2001年7月まで首相兼外務大臣を務め、2002年から2004年末までは駐フランス大使を務めた。2005年7月には心臓発作でパリの病院に入院し、8日後に退院した。2017年にはペルー首相経験者として最長寿となり、2020年1月に100歳を迎えて、3月4日にリマで亡くなった。

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