伝記
ホスニー・ムバーラクは、1928年5月4日に生まれ、2020年2月25日に没したエジプトの軍人・政治家である。日本ではムバラクと表記されることが多い。共和政エジプトの第4代大統領として約30年にわたる長期政権を維持したが、2011年の革命によって失脚した。
ミヌーフィーヤ県のカフル・エル・ムスリフ村に生まれた。父は小さな地主で、県の法務局で働き、息子にカイロ大学への進学を勧めていた。しかし1948年の第一次中東戦争でアラブ軍の無能力が明らかになると、有能な人材を集めるため中産階級にも将校への道が開かれた。ムバーラクは飛行士の道を進み、1949年に士官学校を優等で卒業した。シナイでの勤務や空軍士官学校の教官を経て、1956年に第二次中東戦争に従軍し、1959年から1961年にはソビエト連邦で訓練を受けた。1967年の第三次中東戦争でエジプト空軍が事実上壊滅した後は軍大学校長としてパイロットの増員と訓練期間の短縮に取り組み、この成果がナセル大統領に認められて1969年に空軍参謀長となった。サダト政権下の1972年に空軍司令官兼国防次官となり、1973年の第四次中東戦争ではイスラエル軍の防衛陣地への電撃作戦で戦局を有利に導いて国民的英雄となり、「シナイの星」勲章を授与され空軍元帥に昇進した。
この功績を評価したサダト大統領により、1975年4月に副大統領に任命された。1976年には中国を訪れて毛沢東と会見し、ソ連製航空兵器のスペアに代わる中国製の戦闘機や爆撃機を獲得している。1981年10月6日にサダトが暗殺されると、10月14日に後継の大統領に就任し、1982年には国民民主党総裁にも就いた。サダトの親米・親イスラエル路線を継承し、1982年4月にはイスラエルからシナイ半島の返還を実現した。一方で1984年にソ連と関係を正常化し、1990年にはアラブ連盟への復帰に成功している。湾岸戦争では多国籍軍へのエジプト軍の参加を決めた。2001年の同時多発テロ事件ではアメリカへの支持を表明し、イスラム過激派の取り締まりにも積極的であった。こうした路線は欧米諸国から高く評価され、「現代のファラオ」とも呼ばれた。
だが就任当初から非常事態宣言を出し続けて強権的な統治を敷き、政権の要職は腹心で固められ、貧富の差も固定化していった。ムバーラクは何度かイスラム主義者による暗殺未遂に見舞われた。次男への世襲が予測される中、2010年には胆嚢の摘出手術を受けたが、同年12月には政権継続の意思を示した。
2011年1月にチュニジアのジャスミン革命の影響を受けて辞任を求める動きが広がると、2月1日に次期大統領選挙への不出馬を表明した。2月10日に副大統領への権限移譲の考えを示したが、野党勢力は即時辞任を求め続け、翌11日に辞任が発表された。その後、デモ隊への暴力行為への関与や不正蓄財の容疑で拘束され、2012年6月に終身刑を言い渡されたが、2013年1月に最高裁が判決を覆して裁判のやり直しを命じた。2014年11月には公判棄却の判決が出され、2017年3月に無罪が言い渡された。2020年2月25日に死去が報じられ、葬儀は軍の主催で営まれた。
在任中、一家は欧米に多数の不動産や銀行口座を保有し、資産は約700億ドルとも言われた。政変を受けてスイスは2月11日に一家の資産を3年間凍結した。保養地シャルム・エル・シェイクを好み、休暇や政務、各国首脳会議にもこの地を使った。パレスチナのガザ地区やカイロの地下鉄には、その名を冠した病院や駅があった。
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