伝記
トリスムンドは、420年頃に生まれ453年に没した西ゴート王である。在位は451年から453年。テオドリック1世の子で、祖父は、ローマを陥れたアラリック1世とされる。母はペドーク妃といい、父の二番目の妻にあたる。名はゴート語でトールの勇気、あるいはトールの庇護を意味するともいわれる。弟にテオドリックがおり、のちに王となる。幼少期のことはほとんど分からない。弟が家庭教師アウィトゥスの教えを受けたのに対し、兄の彼はその教えを受けなかった。父は彼を後継者にするつもりで、ラテン語の初歩を学ばせる必要を認めなかったのかもしれないとされる。
451年、トリスムンドはカタラウヌムの戦いに、ローマと同盟したゴート軍の一部隊の長として、父王や弟とともに加わった。この戦いで彼は負傷したという。戦いの序盤には、ゴート軍の一隊を率いて重要な高地を占領し、それが敵であるフン族とオストロゴート人の軍の左翼全体に及んだらしい。戦いの終盤、フン族がアラン人を破り、王を失ったゴート軍がオストロゴート人に押されて混乱すると、彼は丘を下って一隊を率い、決定的な突撃を行った。エドワード・ギボンによれば、この突撃は敵を側面から襲い、勝利を敵の手から奪い取ったという。
この戦いで父テオドリック1世は、アッティラ軍にいたオストロゴートの槍に討たれて戦死した。トリスムンドは、父の亡骸がまだ温かいうちに、戦場でゴートの戦士たちに王として推戴された。そのとき父には、武器を打ち鳴らすゲルマン式の葬礼が行われていたという。彼は体の強健さで臣民に知られていた。敗走するフン族への追撃を望んだが、ローマの将軍アエティウスにいさめられ、父の後継の問題を片づけるため、都のトゥールーズへ軍とともに戻った。トゥールーズに宮廷を置いた王は、アラン族からオルレアンを奪った。453年の初春には、ガリアへ侵入しようとしたフン族とアラン人に再び戦いを挑み、ローヌ川の近くで破ったとされる。歴史家ヨルダネスは彼を優れた戦略家と評し、この勝利ののち、アッティラは二度とガリアへの侵入を試みなかったという。西ゴート王国はローマ帝国から独立した存在であり、ローマ人と対等に扱われるべきだと考えた最初の西ゴート王だったともいわれる。
しかしアエティウスは、フン族とアラン人を相手に輝かしい軍功を立てた王を、目障りに思ったとされる。西ゴート軍が勝利から戻る途中、ローマ側は待ち伏せによってアルルを取り戻した。親衛長官フェレオルスがトリスムンドをアルルの町から遠ざけて昼食に招いている間に、町はアエティウスの手に落ち、ゴート軍は退いた。弟たちはローマとの戦いを責め、西ゴートの民の間に不和が生じた。
トリスムンドは病を得てトゥールーズに戻り、武器を置いて療養した。そこへ家臣のアスカルクが陰謀について話があると謁見を求めた。王が応じるとすぐにアスカルクが襲ったとも、アスカルクは陰謀を知らせようとしただけだともいわれる。王は反撃して陰謀者の一人を倒し、手近にあった足台で襲撃者の大半を追い払ったが、最後には殺された。襲撃者の名は伝わらず、弟のテオドリックやフレデリックの関与も取り沙汰されるが、証拠はない。病床で絞め殺されたと語る後世の書もあり、アエティウスが王の弟たちと貴族の一団と謀ったともいわれる。王位は弟のテオドリック2世が継いだ。2001年のミニシリーズ「アッティラ」では、マーク・レセレンが彼を演じた。
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