伝記
文帝は、南朝宋の第3代皇帝である。姓は劉、諱は義隆、小字は車児。義熙3年(407年)、劉裕の三男として京口に生まれた。生母は胡道安で、劉裕はまだ東晋の第一の将軍という立場にあり、義隆は権勢と富のある家に生まれたといえる。ただし劉裕は409年に胡氏を死なせており、その理由は伝わらない。義隆の養育には母方の祖母の蘇氏が関わり、成長してからも特に親しんだという。
義熙6年(410年)、盧循が東晋の都建康を脅かした際、わずか3歳の義隆は、補佐役の劉粋に付き添われて京口の守りに就いた。義熙11年(415年)、蜀を平定した父の論功行賞に伴って彭城県公となった。417年には父が後秦を攻める間、後方を固めるため彭城にとどまって徐州の長官を務め、418年に後秦が平定されると、重要な荊州の長官となって西方の軍を統べた。幼かったため、幕僚の張邵が実際には役所を取り仕切ったという。永初元年(420年)に劉裕が南朝宋の武帝として即位すると、宜都王に封じられた。このころ儒教の経典や史書に通じた人物として知られ、書も巧みだったとされる。
元嘉元年(424年)、父の死後に即位していた長兄の少帝劉義符は、不行跡を理由に廃されて殺された。徐羨之、傅亮、謝晦らの重臣は、次兄の廬陵王劉義真も少帝以上にふさわしくないとして殺し、有能で寛容だと見た義隆に帝位を勧めた。傅亮が自ら江陵の役所を訪ねたが、側近たちは二人の兄の死を聞いて疑い、東へ向かわないよう進言した。しかし王華は、重臣たちは合議で動いており、力の均衡から反逆はできないと説いた。王曇首や到彦之も賛成し、義隆は帝位を受けることにした。
即位した文帝は、はじめ兄を廃した重臣たちを高い官職に就けて安心させ、国政の多くを徐羨之と傅亮に委ねながら、次第に政務に慣れていった。少帝と劉義真の妻や母を都に呼び戻して厚く遇し、重臣たちへの不満をほのめかしたともいう。亡き母の胡氏には皇太后の位を追贈し、妻の袁斉嬀を皇后に立てた。のちに兄を廃して殺した罪で、徐羨之らの重臣を次々と粛清した。その一方で貴族を重用し、学問を奨励して国子学を復興させた。こうして学問や仏教などの文化が栄え、范曄が『後漢書』を完成させるなど、南朝宋は全盛期を迎えた。この治世は「元嘉の治」と呼ばれ、皇帝の勤勉さと、有能で清廉な官僚を見いだす力が繁栄の理由とされる。
対外的には、名将檀道済を用いて北魏としばしば争ったが、元嘉8年(431年)の和睦で一時の平和を得た。しかし北魏が華北を平定して国内を固め、文帝が讒言によって檀道済を誅殺すると、元嘉27年(450年)に和睦は破られ、北魏の侵攻を受けた。一時は撃退したものの、北魏軍は長江北岸の瓜歩山にまで達し、宋は大きく乱れた。度重なる北伐の失敗と誤った戦略が、晩年の国力を弱めたとも評される。この時代、倭の五王も宋に朝貢している。元嘉30年(453年)、文帝は長男で皇太子の劉劭が巫蠱を行ったことに怒り、廃嫡を考えたが、実行をためらった。徐湛之と相談したものの、その内容が漏れ、同年2月、決起した劉劭によって殺された。在位は29年だった。劉劭はそのまま帝位に就いたが、1年足らずのうちに弟の劉駿に敗れ、劉駿が孝武帝として即位した。正室は袁斉嬀(文元皇后)で、長男が劉劭、三男が孝武帝劉駿、十一男がのちに第6代皇帝となる明帝劉彧である。息子だけで19人が挙げられる多くの子女に恵まれた。