HISTORICAL PERSON · 2021年没

リヒャルト・R・エルンスト

スイスの化学者。フーリエ変換核磁気共鳴の開発への貢献で1991年にノーベル化学賞を受賞した。この技術は医療用のMRIにも実用化された。

生涯
2021年没
死亡地
スイス連邦(チューリッヒ州 / ヴィンタートゥール)
出生地
スイス連邦(ヴィンタートゥール)
出典
世界地図
スイス連邦(チューリッヒ州)

伝記

リヒャルト・R・エルンスト(リヒャルト・ローベルト・エルンスト)は、1933年8月14日にスイスのヴィンタートゥールで生まれ、2021年6月4日に没した物理化学者である。1991年にフーリエ変換核磁気共鳴(NMR)分光法の開発への貢献でノーベル化学賞を受けた。自らを科学者というより「道具作り」と控えめに呼んだという。

父はロベルト・エルンスト、母はイルマ・エルンスト=ブルンナーで、3人きょうだいの長男だった。祖父が商人として1898年に建てた家で育ち、子どもの頃はチェロを弾き、作曲家になることまで考えたという。13歳のとき、亡くなった叔父(冶金技師)の薬品の箱を見つけて夢中になり、思いつく限りの反応を試した。爆発を起こして両親を怯えさせることもあった。

その後チューリッヒのスイス連邦工科大学(ETH)で化学を学び、1957年に化学技師の資格を得た。授業の内容に満足できず、余暇に量子力学と熱力学を独学したと伝わる。兵役を挟み、1962年に同大学で物理化学の博士号を取得した。論文は物理化学の分野の核磁気共鳴を扱ったものだった。1962年または1963年に、米国カリフォルニア州パロアルトのバリアン社に入り、ウェストン・アンダーソンとともにフーリエ変換NMRの研究を進めた。この間にノイズデカップリングなど多くの手法も考案したとされる。1960年代後半にETHへ戻り、講師から1970年に助教授、1972年に准教授となり、1976年からは物理化学の正教授を務めた。

ETHでは磁気共鳴分光の研究グループを率い、物理化学研究所の所長も務めた。二次元NMRや新しいパルス技法を開発し、クルト・ヴュートリッヒ教授との協力では、溶液中の生体高分子の構造決定にも関わった。分子内の動きの研究にも加わり、医療用の磁気共鳴断層撮影の発展にも貢献した。この技術は有機化学での分子構造の同定に強力な手段となり、医療ではMRIとして実用化され、画像診断の有力な手がかりとなった。ノーベル委員会が作成したポスターは、受賞の元になった着想が、ブリュッセル自由大学教授のベルギー人化学者ジャン・ジェネールのものであったことを認めている。1998年に退職した。

受賞は多く、1986年にマルセル・ブノワ賞、1989年にジョン・ゲンブル・カークウッド・メダルを受け、1991年にはウルフ賞化学部門、コロンビア大学のルイザ・グロス・ホロウィッツ賞、そしてノーベル化学賞を得た。ノーベル賞の知らせは、大西洋上を飛ぶ飛行機の中で受けた。操縦室に招かれ、無線でノーベル委員会と話したという。1993年に王立協会外国人会員に選ばれ、2000年にタデウス・ライヒシュタイン・メダル、2004年にルーマニア星勲章を受けた。米国科学アカデミー、ドイツのレオポルディーナ、ロシア科学アカデミー、韓国科学技術翰林院などの外国会員にも名を連ね、ミュンヘン工科大学、ローザンヌ連邦工科大学、チューリッヒ大学、アントウェルペン大学、モンペリエ大学などから名誉博士号を贈られた。

私生活では、妻マグダレーナとのあいだに3人の子をもうけた。音楽や美術を愛し、とくにチベットの掛け軸絵を好んで、科学の手法で顔料を調べ、産地や年代を探ったという。2009年には、故郷を舞台にしたドキュメンタリー映画がベルエア映画祭で初上映され、2022年にはヴィンタートゥールで、亡くなる数か月前に撮影された回顧のドキュメンタリーも公開された。2021年6月4日、生地ヴィンタートゥールで87歳で亡くなった。

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