伝記
パウル・ヨーゼフ・クルッツェンは、1933年12月3日にアムステルダムで生まれ、2021年1月28日に没したオランダの気象学者・大気化学者である。1995年に、マリオ・モリーナ、フランク・シャーウッド・ローランドとともにノーベル化学賞を受けた。受賞理由は、大気中のオゾンの生成と分解についての研究である。
両親はアンナとヨーゼフで、1940年、ドイツがオランダに侵攻した年に小学校へ入学した。校舎がドイツ軍に接収されたため授業は各地を転々とし、戦争の最後の数か月には「飢えの冬」を経験して、同級生の何人かが飢えや病気で亡くなったという。1946年に小学校を終えて高等市民学校に進み、フランス語、英語、ドイツ語に通じるようになった。自然科学に力を入れ、1951年に卒業したが、成績は大学の奨学金を受けられる水準に届かなかった。そこで学費の安い高等専門学校で土木工学を学び、1954年にアムステルダムの橋梁建設局に就職した。兵役を終えた1958年には、数年前に知り合ったフィンランド人の大学生テルットゥ・ソイニネンと結婚し、ストックホルムの北約200キロにある小さな町イェブレへ移って建設会社に勤めた。
その後、ストックホルム大学気象学科がプログラマーを募集する広告を見て応募し、採用されて、1959年7月に妻と娘イロナとともにストックホルムへ移った。当時の同大学は気象の数値モデル研究の最先端にあった。クルッツェンはそこで初期の数値予報モデルのプログラミングと運用に関わり、熱帯低気圧のモデルを自分でもつくった。働きながら他の講義も受けられたため、1963年に数学、統計学、気象学を組み合わせた論文で博士課程に出願した。1965年ごろ、アメリカの科学者から、成層圏から下部熱圏までの酸素原子、酸素分子、オゾンの分布を扱う数値モデルへの協力を頼まれ、成層圏の化学とオゾンの光化学を調べることになった。博士号の取得は1968年とも1973年ともいわれる。論文は好評で、窒素酸化物を調べるべきだと示唆する内容だった。これが縁でオックスフォード大学クラレンドン研究所の博士研究員となった。
研究の中心は大気化学で、とくにオゾン層の破壊の研究で知られる。1970年には、土壌中の細菌が出す安定で寿命の長い気体である亜酸化窒素が、成層圏に届いて一酸化窒素に変わることを示した。肥料の使用が増えれば亜酸化窒素の排出も自然状態を超えて増え、成層圏の一酸化窒素が増えるため、人間の活動がオゾン層に影響しうると指摘した。翌年にはハロルド・ジョンストンとは別個に、成層圏を飛ぶ超音速旅客機の排気も同様にオゾン層を減らしうると論じたが、近年の分析ではこれはさほど大きな懸念ではないとされる。1974年には、ローランドと、メキシコ出身の博士研究員モリーナによる、フロンがオゾン層を壊す可能性を扱った論文の草稿を受け取り、すぐにその影響のモデルをつくった。また、大規模な大気汚染が気候に及ぼす影響として核の冬の考えを最初に唱えた科学者の一人でもある。
2000年には、ユージーン・ストーマーとともに、人類の影響が地質学的な規模に達したことを示す語として「アントロポセン(人新世)」を提案した。のちには、温室効果の暴走に備えて、大気上層に硫黄を散布し太陽光を遮る方法を検討すべきだと主張した。この方法は論争の的になったが、科学者のあいだで真剣に検討されている。穀物由来のバイオ燃料が化石燃料の約2倍の亜酸化窒素を出すことも突き止めた。スウェーデン王立科学アカデミーの会員で、英国王立協会の外国人会員にも選ばれた。
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