伝記
フィル・スペクターは、1939年12月26日にニューヨークのブロンクスで生まれ、2021年1月16日に没したアメリカの音楽プロデューサーである。「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれる重厚な音作りで、1960年代から70年代のポピュラー音楽に大きな足跡を残した。1989年にロックの殿堂入りを果たしている。
家はロシア系ユダヤ人の家庭で、姉が一人いた。父は多額の負債を抱えて1949年4月に自ら命を絶ち、墓碑には「彼を知ることは、彼を愛すること」という意味の言葉が刻まれた。1953年に母が一家をロサンゼルスへ移し、母は仕立ての仕事で生計を立てた。スペクターはギターを覚え、高校のタレントショーで演奏し、音楽を志す仲間たちと交わった。そしてマーシャル・ライブらとザ・テディ・ベアーズを結成した。1958年に父の墓碑の言葉に着想を得て書いた「逢った途端にひとめぼれ」が、12月1日付で全米1位となり、年末までに100万枚を超えて売れた。しかしグループは1959年に解散した。録音技師スタン・ロスから制作の手ほどきを受けたことが、のちの音作りに大きな影響を与えたとされる。
関心がバンド活動より制作へ移ったスペクターは、プロデューサーとして歩み始める。レスター・シルの紹介で1960年にニューヨークでリーバーとストーラーのもとで見習いとして働き、ベン・E・キングの「スパニッシュ・ハーレム」を共作した。1961年にはシルとともにフィレス・レコードを設立した。レーベル名は二人の名前、フィルとレスの合成である。第1弾シングル「ゼアズ・ノー・アザー・ライク・マイ・ベイビー」は全米20位を記録した。クリスタルズ、ダーレン・ラヴ、ライチャス・ブラザーズなどを手がけ、1963年にはザ・ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」がヒットした。
その音は、「レッキング・クルー」と呼ばれた多人数のスタジオ・ミュージシャンを集め、ゴールド・スター・スタジオの狭い部屋で大編成のバンドを一発録りして作られた。当時としては非常に斬新で、制作者やミュージシャンに大きな影響を与えた。録音には時間と労力がかかったが、スペクターは偏執的なまでに理想の音にこだわり、ステレオが主流になってもモノラルにこだわり続けた。
ビートルズとは早くから親交があり、初渡米の際には搭乗便を変えて同じ飛行機に乗った。1970年のアルバム『レット・イット・ビー』では「ゲット・バック・セッション」の再プロデュースを担当した。ジョン・レノンとジョージ・ハリスンは、散漫な録音集を短期間でまとめた手腕に感銘を受け、ソロ作でも起用した。ところがポール・マッカートニーは、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」にオーケストラやコーラスを重ねたことを、意向を無視した過剰なプロデュースだとして強く憤った。
1970年代以降は、対立したラモーンズのメンバーやレノンを銃で脅したり、納得できないマスターテープを持って姿を消したりする奇行が目立った。麻薬を常用して錯乱することもあり、1980年にラモーンズの『エンド・オブ・ザ・センチュリー』を手がけてからは第一線を退いた。
2003年2月、自宅で女優ラナ・クラークソンを射殺した容疑で逮捕された。自殺だと主張して否認し、保釈された。2007年の裁判は評決不能に終わったが、2009年4月13日の再審で第2級殺人罪の有罪評決を受け、5月29日に禁錮19年の判決を受けた。2020年に新型コロナウイルスに感染し、合併症で刑務所から病院へ移され、翌2021年1月16日に亡くなった。
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