HISTORICAL PERSON · 1977年没

ハワード・ホークス

アメリカの映画監督。裕福な家に生まれ、コーネル大学で機械工学を学んだ後、レーシングカーにも乗り、のちに映画界へ進んだ。

生涯
1977年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / パーム・スプリングズ)
出生地
アメリカ合衆国(エルクハート郡)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ハワード・ウィンチェスター・ホークスは、1896年5月30日、アメリカ合衆国インディアナ州ゴーシェンで生まれた映画監督である。生家は製紙業をはじめ不動産や石炭会社を営み、地元経済の大黒柱として知られた一族で、母方もウィスコンシン州の産業界の重鎮という裕福な家の長男だった。学生時代の成績はあまり良くなかったが、1914年にコーネル大学に進み、機械工学を専攻した。祖父に買ってもらったレーシング・カーでカリフォルニアのアマチュア・レースにも出場していた。

1916年、夏休みのアルバイトとして、レーサー仲間のヴィクター・フレミングの紹介で、パラマウントの前身にあたるスタジオの小道具係として働いた。建築の素養があったので舞台装置も手がけ、その働きぶりがダグラス・フェアバンクスやメアリー・ピックフォードの目にとまり、学生のまま助監督に取り立てられた。しかし大学在学中に第一次世界大戦が始まり、陸軍航空部に入って飛行部隊の教官を務めた。除隊後に大学を卒業し、弟のケネスとともに正式に映画界に入った。1922年にパラマウントに脚本家として入社して、ほとんどクレジットされないまま2年間で60本近い映画の脚本を手がけた。1924年にMGMに移ったが、翌年にフォックス映画と契約し、1926年に自ら脚本も書いた『栄光の道』で長編の監督デビューを果たした。

サイレント映画を何本か撮ったのち、1930年にはファースト・ナショナルで初のトーキー『暁の偵察』を発表した。同年のヒューズ製作『地獄の天使』とともに、この航空映画は年のヒット作となった。その年、映画製作者として活躍していた弟ケネスが撮影中の事故で亡くなる悲劇にも見舞われた。ヒューズと組んだギャング映画『暗黒街の顔役』は、過激な暴力描写などが問題になり、映画業界の自主検閲機関ヘイズ・オフィスがホークスたちの了解なしにラストシーンを撮り直した末、公開は半年後の1932年となった。1934年にはコロンビアで『特急二十世紀』を監督し、これはフランク・キャプラの『或る夜の出来事』と並び、スクリューボール・コメディの先駆けとなった。

1938年のRKO作品『赤ちゃん教育』は興行的に惨敗し、責任者のホークスは準備していた『ガンガ・ディン』から降板した。その後は1939年の航空映画『コンドル』、1940年の『ヒズ・ガール・フライデー』、1941年の『教授と美女』などコメディの傑作を手がけた。『ヨーク軍曹』では主演のゲイリー・クーパーにオスカーをもたらした。1944年にはハンフリー・ボガート主演の『脱出』で新人のローレン・バコールを起用し、これを機にボガートとバコールは結婚した。1948年の西部劇『赤い河』でジョン・ウェインの名を決定的なものにし、ウェインとは『リオ・ブラボー』『ハタリ!』『エル・ドラド』、遺作となった1970年の『リオ・ロボ』でも組んだ。

1977年12月3日に自宅で転倒し、同月26日、心臓の動脈硬化のため81歳で亡くなった。前日にはチャップリンが亡くなっており、訃報はその陰に隠れてしまった。現役のころは娯楽専門の映画監督と見られていたが、1950年代にはゴダールやトリュフォーら『カイエ・デュ・シネマ』誌の批評家から作家主義の観点で高く評価された。1975年にアカデミー名誉賞を受けた。本人は自分を職人監督と割り切り、ストーリーを語っているに過ぎないと述べた。ただし本人の語る逸話には信憑性の低いものが多いともいわれ、幼少期から映画界入りまでの詳しい経緯はよくわかっていない。

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