伝記
根岸英一は、1935年(昭和10年)7月14日に生まれ、2021年(令和3年)6月6日に没した日本の化学者である。有機亜鉛化合物を用いるクロスカップリングの根岸カップリングを発見し、2010年にノーベル化学賞を受賞した。
生まれたのは満洲国の新京(現在の長春)で、南満洲鉄道系の商事会社に勤めていた父の転勤により、翌年ハルビンに移って少年時代を過ごした。1943年には朝鮮の仁川、次いで京城へ移り、終戦後の1945年11月に東京の目黒へ引き揚げた。食糧不足を避けるため神奈川県の大和町(現大和市)へ転居し、地元の小学校と中学校に通った。満洲で早く就学していたため、湘南高校の受験時には年齢が足りないと通知されたが、中学の教諭約10人が交代で高校を説得して入学が認められ、同級生より1歳年下の14歳で入学した。入学当初の成績は優秀ではなかったが、2年生になって猛勉強し、2年の2学期から卒業まで学年トップかそれに並ぶ成績を収めた。合唱部に所属した。1953年に17歳で東京大学に入学し、受験のときは、不合格でも東京芸術大学の楽理科か指揮科なら入れるかもしれないと考えていたという。
大学3年のとき胃腸障害で入院して1年留年し、1958年に工学部応用化学科を卒業した。在学中に帝人久村奨学金を受けた縁で、同年に帝国人造絹絲(現帝人)に入社した。1960年に帝人を休職し、フルブライト奨学生としてペンシルベニア大学の博士課程に留学して、1963年に博士号を取得した。帰国して帝人の研究所に復帰したが、学界の研究者への転身を決意した。日本の大学に職場が見つからず、1966年に帝人を休職してパデュー大学の博士研究員となった。指導したのはのちにノーベル化学賞を受けるハーバート・C・ブラウンである。1968年にパデュー大学講師、1972年にシラキュース大学助教授となって帝人を正式に退職し、1976年に准教授へ昇格した。1979年にブラウンの招きでパデュー大学へ戻って教授となり、1999年からはブラウン化学研究室の特別教授を務めた。同年のブラウンのノーベル賞授賞式には随伴者の一人として出席している。
根岸カップリングは、有機亜鉛化合物と有機ハロゲン化物をパラジウムまたはニッケル触媒のもとで縮合させ、炭素どうしの結合をもつ生成物を得る反応である。有機アルミニウム化合物や有機ジルコニウム化合物をクロスカップリングに用いうることも最初に報告した。二塩化ジルコノセンを還元して得られる試薬は根岸試薬と呼ばれ、多置換ベンゼンの合成などに用いられる。この反応の特許は取らなかった。誰でも気軽に使えるからと、半ば意識的に選んだと本人は述べている。2010年10月6日に鈴木章、リチャード・ヘックとともにノーベル化学賞の受賞が決まり、「夢見たことがかなった。50年間思い続けていれば夢はかなう」と語り、日本の若者も海外に打って出るべきだとした。同年に文化勲章を受け、文化功労者にも選ばれた。2011年に母校ペンシルベニア大学と岡山大学から名誉博士号を、2014年には東京大学からも名誉博士号を受け、米国科学アカデミーの会員にもなった。
私生活では、湘南高校の同級生の妹である鈴木すみれと結婚し、2女をもうけた。趣味はスキーである。2018年3月、イリノイ州で夫妻の乗る車が溝にはまり、助けを求めて外に出た根岸が戻らなかったため、すみれ夫人も探しに出たが、寒さで低体温症になり死去した。警察は事件性を否定している。2021年6月6日、インディアナポリスで85歳で死去し、没日に遡って従三位に叙された。
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