HISTORICAL PERSON · 2021年没

アボルハサン・バニーサドル

イラン革命後の初代大統領。経済学者で、暫定蔵相・外相を経て1980年に大統領に選ばれたが、人質事件での仲介が保守派の反発を買った。

生涯
2021年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 13区)
出生地
イラン共和国(ハマダーン)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

アボルハサン・バニーサドルは、1933年3月22日にハマダーン北方のバーグチェ村で生まれ、2021年10月9日に没したイランの政治家・著述家である。イラン革命後のイランで初代大統領を務めた。父ナスロッラーはクルディスタン地方のビジャール出身のシーア派の聖職者だった。

テヘラン大学で法学、神学、社会学を学び、国民戦線に属して、1960年代前半の反パーレビ王制の学生運動に加わった。その活動により二度投獄され、1963年のデモでは負傷した。やがてフランスへ逃れてパリ大学で財政と経済を学び、イスラーム金融を論じた『唯一神教の経済』を著したほか、国民戦線系の宗教的な学生組織、イスラーム学生協会を率いた。1972年に父が亡くなり、葬儀の場となったイラクでホメイニーと会って、その顧問になったという。革命が終わりに近づいた1979年2月1日、ホメイニーとともにイランへ帰国した。

革命後の暫定政府では財務次官に任じられ、ホメイニーの指示でイスラム革命評議会の一員にもなった。人質事件を受けて暫定政府が解散すると、1979年11月12日に外相となり、同月17日には財務相に転じた。経済学者であった彼は、アメリカ大使館人質事件が「国家内の国家」を生み、イランを第三世界から孤立させていると公然と批判した。この間にアメリカ政府との仲介役を務めたことが保守派の反発を買ったともいわれる。

1980年1月に新設の大統領職への立候補を届け出た。聖職者の資格はなかったが、聖職者は出馬しないようにとしたホメイニーに守られていた。1月25日の選挙で75.6パーセントの票を得て、任期4年の大統領に選ばれ、2月4日にホメイニーが療養する病院で就任式が行われた。1980年9月にイラン・イラク戦争が始まると対応を主導し、国境付近で二度のヘリコプター墜落事故に遭いながら生還した。1981年1月20日にはアメリカ大使館人質の解放を取り仕切った。

しかし国会では保守的な聖職者が多数を占め、大統領と対立するラジャーイーを首相に選んだ。「我が息子」と呼ぶほど親密だったホメイニーも、次第に彼を糾弾するようになった。1981年5月、前線の苦境、人権状況の悪化、報道統制の強化、腐敗の増大などが重なるなか、彼は大統領選で1,000万票余りを得たのに対し、イスラーム共和党は国会選挙で400万票に満たなかったと述べて、新たな国民投票を求めた。この主張は新体制に疑問を抱く人々の拠り所となり、左派武装組織のモジャーヘディーネ・ハルグもこれに加わった。弾劾を求める声が高まるなか、ホメイニーは公に謝罪すれば大統領の座にとどまれると告げたが、彼は拒み、民衆に「抵抗」を呼びかけた。6月10日には軍最高司令官の地位を解かれ、6月21日に議会が弾劾決議を可決し、翌22日にホメイニーが承認した。彼は事前から身を隠しており、革命防衛隊が大統領府の建物を押さえていた。親バニーサドル派の大規模な集会では、ヒズボラや革命防衛隊の攻撃で50人が死亡したと伝えられる。

その後、国外に脱出してパリで亡命生活を始め、モジャーヘディーネ・ハルグの指導者ラジャヴィーとともにイラン国民抵抗評議会を共同で設立した。晩年まで記事の執筆などでイランの現体制を批判し続けた。2019年のイラン革命40年に際して東京新聞の取材に応じ、ホメイニーは亡命中には自分と同じ国家像を描いていたが、権力を握ると変わってしまったと語った。一方で、欧米による経済制裁や介入には反対を表明した。2021年10月9日、パリ南東部のサルペトリエール病院で88歳で死去した。

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