伝記
アエティウスは、5世紀前半から半ばにかけて西ローマ帝国の実権を握った将軍である。391年ごろ、モエシア属州のドゥロストルム(現在のブルガリアのシリストラ)で生まれた。父はスキタイ出身のローマ軍人ガウデンティウス、母は裕福なイタリア系貴族の女性アウレリアだった。少年期は宮廷に仕えて近衛隊に入ったが、405年から408年のあいだは西ゴート王アラリック1世のもとへ人質として送られ、その後はフン族のもとにも送られた。フン族の人質時代にはアッティラとも親交があったといわれる。ギボンらは、好戦的な部族のもとで育ったことが、当時のローマに欠けていた軍事的な活力を彼に与えたと指摘している。
423年に皇帝ホノリウスが没すると、実力者カスティノスの推す書記官ヨハンネスが帝位についた。アエティウスは宮殿監督としてこの皇帝に仕え、フン族の援軍を求めるために派遣された。ところが東ローマ皇帝テオドシウス2世は幼いウァレンティニアヌス3世を西の皇帝に立てようと遠征軍を送り、425年にヨハンネスはラヴェンナで捕らえられて殺された。フン族の大軍とともにイタリアへ戻ったアエティウスは、権力が皇帝の母后ガッラ・プラキディアに握られているのを知り、和解してフン族を帰還させ、ガリア軍司令官の地位を得た。以後はアルル包囲の西ゴート族を撃破し、428年にはフランク族を破ってライン川沿いの領土の一部を回復するなど、蛮族との戦いで頭角を現し、429年には軍司令官に昇進した。
権力の座をめぐっては、宮廷の実力者たちとの争いが続いた。430年にはフラウィウス・フェリックスを陥れようとしたと非難して夫妻を殺害し、有力な将軍ボニファティウスとも対立を深めた。432年に執政官となったアエティウスは、リミニでボニファティウスと戦ったが、勝ったボニファティウスは重傷を負って数か月後に死んだ。後任のセバスティアヌスに暗殺を企てられると、アエティウスはローマからダルマチアとパンノニアを経て、友人のフン族のもとへ逃れた。433年にフン王ルーアと、兵力の提供と引き換えにパンノニアの支配を認める取り引きを行い、その助けでイタリアに戻って権力を取り戻した。ボニファティウスの未亡人ペラギアと結婚し、435年にはパトリキの称号を受け、母后と若い皇帝の守護者の役割を担った。
その後もガリア防衛に力を注ぎ、436年にブルグント王グンダハールを破り、翌年にはフン族を送り込んでブルグント族を撃滅した。この事件は後にニーベルンゲンの歌の元になったといわれる。443年にはブルグント族の残りをサヴォイアに定住させ、アラン族をヴァランスとオルレアンに配してバガウダエの反乱を抑えた。
451年にアッティラがガリアへ侵攻すると、元老院議員アウィトゥスの助けで西ゴート王テオドリック1世を説得して連合軍を作り、オルレアンの包囲を解かせた。6月20日のカタラウヌムの戦いでアッティラを破ったが、テオドリックが戦死すると、王位を確保するため王子トリスムンドにトゥールーズへ帰るよう勧めた。このため戦利品を独り占めしたと噂された。翌452年にアッティラがイタリアへ侵入したとき、アルプスの通路を防ぐ手立てを取っておらず、戦うだけの戦力もなかった。454年9月21日、功績を恐れた皇帝ウァレンティニアヌス3世によって暗殺され、翌年には皇帝自身もアエティウスの元部下に殺された。ボニファティウスとともに「最後のローマ人」と称される。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- ヨハネス1世 (ローマ教皇) (526年没)
- アニータ・ガリバルディ (1849年没)
- ジョバンニ・グァレスキ (1968年没)
- テオドリック (東ゴート王) (526年没)
- ルイージ・カルロ・ファニーニ (1866年没)