伝記
ヨハネス1世は、470年頃に生まれ、526年5月18日に没したローマ教皇である。在位は523年から526年までで、カトリック教会と正教会で聖人とされる。生年には「?」が付く通り確かではなく、生まれた場所も定かでない。トスカーナのシエナか、チウジーノ近くにあった小さな城塞ではないかといわれ、父の名はコンスタンティウスだったともいう。
若くしてフィレンツェで学び、のちにローマで学んだ。聖職に入り、およそ30年にわたってローマ教会の諸職を務め、学識と敬虔さで知られたという。助祭だった頃には、対立教皇ラウレンティウスを支持していたと伝えられ、506年に教皇シュンマクス宛ての書簡で、自らの誤りを認めて赦しを求めた。499年と502年のローマの教会会議の記録に署名した助祭ヨハネスや、ボエティウスが宗教的な論考のうち三つを献じた助祭ヨハネスと、おそらく同一人物だと考えられている。その後、司祭枢機卿となり、教皇ホルミスダスの首席助祭に任じられた。ホルミスダスの死から七日後に、ローマ司教に選ばれた。
彼が教皇となった背景には、当時の政治情勢がある。西ローマ帝国の滅亡後、イタリアの支配者となったのは、東ゴート王テオドリックだった。彼はアリウス派に属したが、東ローマ皇帝ユスティヌス1世がアリウス派の弾圧を始めると、両者の間を取り持つために、ヨハネスを教皇位につけ、使節団とともに東ローマ帝国へ派遣した。教皇は自らの意に反して送り出され、失敗すれば西方のカトリック教徒に報復を加えるとテオドリックは脅したという。教皇は、ラヴェンナ司教エクレシウスら三人の司教と、フラウィウス・テオドルスら数人の元老院議員を伴った大きな一行を率いて出発した。
ヨハネス1世は、ローマ教皇として初めて東ローマ帝国を訪れ、コンスタンティノポリスで熱烈な歓迎を受けた。ところが、成果については、ユスティヌス1世が妥協を示さず、使節団は何一つ手にできなかったともいわれ、皇帝は使節団の求めを何でも聞き入れると約束したが、改宗したアリウス派信者を元の信仰へ戻すことだけは認めなかったともいわれる。いずれにせよ、帰国した教皇を待っていたのは、テオドリックの怒りだった。テオドリックは、教皇が皇帝と共謀したのではないかと疑って、自らの都ラヴェンナで逮捕させた。
投獄されたヨハネス1世は、即位時点ですでにかなりの老齢で、長旅と老衰のため、獄中で没したという。放置と虐待の末に飢えて死んだともいわれ、カトリック教会は殉教者とみなしている。遺骸はローマに運ばれ、サン・ピエトロ大聖堂に葬られた。後世には、ラヴェンナの教会に14世紀のフレスコ画があり、テオドリックが教皇を死に追い込む場面が描かれ、15世紀には処刑の場面を描いた細密画も作られた。『教皇の書』は、彼が殉教者の墓地を修復し、ラヴェンナで聖堂を再建させたと伝える。一方、彼の名で残る書簡は二通しかなく、その二通も偽作の可能性が高いとされ、教会の運営についての記録は残らない。教皇の在位中には、ローマ教会が復活祭の日付を定め、キリスト生誕から年を数える方式に移ったとも伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- Galan Erilich (526年)
- テオドリック (東ゴート王) (526年没)
- アマラフリーダ (526年)
- クィントゥス・アウレリウス・シュンマクス (526年(推定))
同じ地域に関係する人物
- アルフレード・オリアーニ (1909年没)
- フラウィウス・フェリックス (430年没)
- アニータ・ガリバルディ (1849年没)
- ホノリウス (423年没)
- スティリコ (408年没)