HISTORICAL PERSON · 1702年没

ウィリアム3世 (イングランド王)

オランダ総督から、後にイングランド・スコットランド・アイルランドの王にもなった。妻メアリー2世と共同統治し、ステュアート朝の王の一人に数えられる。

生涯
1702年没
死亡地
イギリス連邦(ケンジントン・アンド・チェルシー区 / ロンドン)
出生地
オランダ(ビネンホフ)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケンジントン・アンド・チェルシー区)

伝記

ウィリアム3世は、オラニエ公でありオランダ総督であり、のちにイングランド、スコットランド、アイルランドの国王となった人物である。オランダ名はウィレム3世、スコットランド王としてはウィリアム2世にあたる。1650年11月14日(ユリウス暦では11月4日)に生まれ、1702年3月19日(ユリウス暦では3月8日)に没した。イングランド国王としての在位は1689年から没年までである。女王メアリー2世は従妹であり妻でもあって、二人で共同統治を行った。

父はオランダ総督ウィレム2世、母はイングランド王チャールズ1世の王女メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートで、その一人息子としてハーグに生まれた。曾祖父は独立の英雄ウィレム1世(沈黙公)である。オラニエ=ナッサウ家は、オランダでも最有力の貴族で、共和国の主要州の総督を務めてきた。父はウィレム3世の生まれる8日前に天然痘で亡くなったため、生まれてすぐ家領を継ぎ、母と祖母アマーリエ、選帝侯が後見人となった。しかし、総督職の世襲に反対する共和派は、ホラント州法律顧問ヨハン・デ・ウィットを中心に、総督への就任を認めなかった。1654年のウェストミンスター条約では、ステュアート家とオラニエ家の援助が互いに禁じられた。ウィレムは共和政府に引き取られた。1660年に母も世を去り、デ・ウィットの教育を受けて成長した。幼くして両親を亡くし、寡黙で慎重な性格になったという。

転機は1672年に訪れた。ルイ14世がチャールズ2世と密約を結んでオランダを孤立させ、フランス軍が侵攻した。国土の大半が占領され、アムステルダムまでが危うくなると、民衆はウィレムの総督就任と共和政府の打倒を叫んだ。ウィレムは総督となり、デ・ウィットと兄コルネリスは暴徒に殺害された。翌1673年にオーストリアやスペインと同盟を結び、フランスを逆に包囲する形勢をつくって、徹底抗戦を貫いた。ボンを落とし、同年のうちにフランス軍を撤退させて、ルイ14世の仇敵となった。戦いはスペイン領ネーデルラントに移り、コンデ公やリュクサンブール公に何度も敗れたが、1678年のナイメーヘンの和約でオランダは領土を保ち、ウィレムはプロテスタントの英雄となった。

1677年には、チャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズの娘メアリーと、ロンドンで結婚した。1685年にジェームズが即位してモンマスの反乱が起こると、ウィレムは援軍を送った。1686年、ルイ14世が再び侵略の野心を強めると、アウクスブルク同盟を結んでフランスに対抗した。

1688年、ルイ14世がプファルツへ侵攻して大同盟戦争が始まると、イングランド議会の要請を受けたウィレムは、ヴァルデック侯にオランダの守りを任せ、軍を率いてイングランドに上陸し、叔父で義父のジェームズ2世をフランスへ追った。死者を出さずに体制を変えたため、名誉革命と呼ばれる。1689年2月、ウィリアム3世として即位した。議会は当初、メアリーの単独統治を考えていたが、ウィレムが反発して同格の君主として戴かれた。即位時の権利章典によって君主の権力は制限されたものの、議会の召集と解散や軍事権は国王に残った。

スコットランドでは、1692年に氏族に忠誠を誓うよう命じたところ、期限に遅れたマクドナルド氏族が虐殺された(グレンコーの虐殺)。1690年にはアイルランドへ自ら渡り、ボイン川の戦いでジェームズ2世を破った。1694年にはホイッグ党の政治家を登用し、これが最初の内閣とされる。1697年には、レイスウェイク条約を結んで大同盟戦争を終わらせた。

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