伝記
アウィトゥスは、385年頃に生まれ、455年から456年にかけて西ローマ皇帝の位にあった人物である。ガリアのクレルモンの名門ローマ貴族の家に生まれた元老院議員で、文官と武官の要職を歴任した。息子にはアグリコラと、のちに軍務長官を務めた人物がおり、娘は文人シドニウス・アポリナリスに嫁いだ。その書簡や頌詩が、アウィトゥスの時代を知る重要な史料となっている。若い頃は当時の貴族にふさわしく法学などを学び、421年以前には郷里の減税を請願するため有力な貴族フラウィウス・コンスタンティウスのもとへ使者に立ち、これを成功させた。
親類のテオドルスが人質として西ゴート王テオドリック1世の宮廷に留められていたことから、425年か426年にその宮廷を訪れ、王から滞在を勧められた。439年頃には王子のちのテオドリック2世と出会い、ラテン語の詩文を教えたという。その後は軍歴を重ね、アエティウスの指揮下でノリクム属州での戦役やブルグント族との戦いに従軍した。437年に高い位に昇り、郷里で高官に就いてフン族の集団の襲撃を撃退し、テオドリック1世にナルボンヌの包囲をやめさせた。439年には西ゴート族との友好条約を更新している。440年夏以前に引退し、クレルモン近郊の所領に隠れ住んだが、451年にアッティラのフン族が侵攻すると、テオドリック1世にローマと同盟するよう説得した。その結果、西ゴート族とアエティウスの合同軍はカタラウヌムでアッティラを破った。ただし、この戦いでテオドリック1世は戦死した。
455年、ペトロニウス・マクシムスが即位すると、アウィトゥスは職務に復帰させられ、おそらく軍司令官に任じられて、西ゴート王テオドリック2世の宮廷へ派遣された。同盟者としての地位の確認と、新帝への協力を求めるためであった。彼が滞在するうちにマクシムスの横死とヴァンダル族によるローマ略奪の知らせが届き、7月9日にテオドリック2世はアウィトゥスを皇帝に推戴した。その後ガリアの属州集会と元老院がこれを承認した。アウィトゥスは西ゴート兵で増強したガリア兵を率いてイタリアに入り、9月21日にローマへ入城した。456年1月1日には執政官に就き、娘婿のシドニウスが頌詩で称えた。しかし東ローマ宮廷は単独の執政官就任を認めず、別の人物を指名したため、両宮廷の関係は良好にならなかった。
治世では、ヴァンダル族が456年3月にカプアを破壊した。皇帝は将軍リキメルをシチリア防衛に派遣し、リキメルはアグリジェント周辺の陸戦とコルシカ島沖の海戦でヴァンダル族を破った。また、西ゴート族が帝国の名のもとにヒスパニアへ勢力を広げた。一方、イタリアではよそ者の皇帝への反発が強まった。皇帝は奢侈と好色を非難されたという。またガリア系貴族を公職に任じた。ヴァンダル族の海上支配で食糧が不足し、異邦人兵の存在がそれを悪化させた。市民の圧力で西ゴート族の護衛兵を解散し、国庫が空に近いなか、その給与のために銅像を鋳つぶすことになった。
民衆の不満を見たリキメルと皇宮護衛隊長マヨリアヌスが反旗を翻し、皇帝は北へ逃れた。ガリアで兵を集めて戻ったが、456年10月17日か18日、プラケンティアの近くでリキメルの大軍に敗れ、捕らえられた。リキメルは命を助け、彼をプラケンティアの司教にした。死の日と理由は明確ではなく、トゥールのグレゴリウスは、死罪を命じられてガリアへ逃れる旅の途中で死んだと伝える。別の史料は、後継の皇帝マヨリアヌスに絞殺または餓死させられたとする。456年末か457年に亡くなり、聖ユリアヌスの墓所の隣に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- Aioulf (457年)
- エルサレムのペラギア (457年没)
- ヤズデギルド2世 (457年没)
- アレクサンドリアのプロテリウス (457年)
- マルキアヌス (457年没)
同じ地域に関係する人物
- マリー・ダヴェーヌ (1354年没)
- セバスチアン・ジャプリゾ (2003年没)
- ヴァレリー・ラルボー (1957年没)
- クィントゥス・ティトゥリウス・サビヌス (紀元前54年没)
- シャルル1世 (ブルボン公) (1456年没)