伝記
ニノン・ド・ランクロ(ニノン・ド・ラン・クロ)は、1620年11月10日にパリで生まれ、1705年10月17日に没したフランスの作家、高級娼婦、芸術の庇護者である。本名はアンヌ・ド・ランクロで、幼いころに父からニノンの愛称で呼ばれた。なお1911年版のブリタニカ百科事典は、生年を1615年11月と記している。
父アンリ・ド・ランクロは、リュートの奏者で楽譜も出版した作曲家であり、娘に歌とリュートを教えた。1632年に父は決闘が原因でフランスから追放された。それから10年後に母マリー・バルブ・ド・ラ・マルシュが没すると、未婚のニノンは修道院に入ったが、翌年には出た。以後は生涯、結婚せず自立して生きようと決意していたという。
パリに戻ると、サロンの人気者となり、自らの客間も文芸を語り楽しむ集まりの中心となった。30歳代前半には若き日のモリエールを励ましたという。一方で、この時期から高級娼婦としての生活が始まった。国王の従兄にあたる大コンデ公ルイやガストン・ド・コリニーなど、名高い裕福な愛人を次々と持ったが、生活の面倒は見させず、自分の収入で独立していることを誇りとした。サン=シモンは、彼女には崇拝者が常に群がったが、愛人は一度に一人だけで、飽きれば率直にそう告げて次に代えたと書き、その威信のため、男たちは恋敵と争えず、親しい友人として出入りを許されるのを喜んだという。1652年にはヴィラルソー侯ルイ・ド・モルネと関係し、同名の息子を産んだ。侯とは1655年まで暮らしたのちパリに戻り、戻らない彼女に侯が熱を出すと、慰めに自分の髪を切って送ったことから、ニノン風の短髪が流行したと伝わる。
こうした生活と、組織化された宗教についての意見は、当時の風潮では受け入れがたく、摂政アンヌ・ドートリッシュの意向により1656年にマドロネット修道院に投獄された。まもなく元スウェーデン女王クリスティーナが訪ねて感銘を受け、マザラン枢機卿に手紙を書いて釈放を取り計らった。これに応えて、作家として宗教なしでも善き人生は送れると主張し、1659年の『仕返しされた媚女』などを書いた。機知でも知られ、「戦を指揮するよりも、恋をするほうがはるかに多くの才能がいる」などの警句が伝わる。スキュデリー嬢の小説『クレリー』にも、ダモの名で彼女の見事な素描が見られる。
1660年代末から高級娼婦の生活を退き、文学仲間との交友に専念した。1667年からはサゴンヌ邸で集いを開き、これが「ニノンのサロン」の場所とされた。劇作家ジャン・ラシーヌと親交があり、のちにルイ14世の二度目の妃となるマントノン夫人とも親しくなった。サン=シモンによれば、夫人は人前でニノンの名が出るのを好まなかったが、否認もせず、死の日まで折々に心のこもった手紙を送った。ニノンは84歳で、非常に裕福な女性として死んだ。公証人の息子で、のちのヴォルテールにあたる9歳の少年に、本を買う金を遺した。死の間際まで自分に魂はないと確信していたという。
後世では、カントが『美と崇高の感情に関する観察』で、貞節の名誉を主張しなかった彼女の例を挙げ、当時の道徳の性差による二重基準を示した。英語圏ではあまり知られないが、フランスでは機知と美貌の代名詞とされる。
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