HISTORICAL PERSON · 2022年没

ウォルフガング・ペーターゼン

ドイツの映画監督。『U・ボート』で成功を収めて渡米し、ハリウッドで活躍した。ベルリンのドイツ映画・テレビアカデミーで学び、ドイツのテレビ向け映画製作から出発した。

生涯
2022年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ブレントウード)
出生地
ドイツ連邦共和国(エムデン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ウォルフガング・ペーターゼンは、1941年3月14日にドイツ北部のエムデンで生まれ、2022年8月12日にアメリカ合衆国カリフォルニア州の自宅で亡くなった映画監督である。『U・ボート』で国際的な名声を得て、のちにハリウッドで大作を手がけた。

第二次世界大戦中に、北海へ注ぐエムス川沿いの港町エムデンで、海軍士官の息子として生まれた。1953年から1960年までハンブルクのヨハネウム学院に通い、在学中から8ミリカメラで映画を撮っていたという。1960年代にはハンブルクのエルンスト・ドイチュ劇場で舞台の演出に携わった。ベルリンとハンブルクの劇場で学んだのち、1966年から1970年までベルリンのドイツ映画・テレビアカデミーに在籍した。

最初の仕事はドイツのテレビ向けの作品だった。人気の犯罪ドラマシリーズ『タートオルト』にかかわるなかで、のちに『U・ボート』で艦長を演じるユルゲン・プロホノフと出会った。『タートオルト』は6話を撮っており、なかでも1977年の『危険な年頃』(原題の意味は「成熟証明書」)は、若き日のナスターシャ・キンスキーが出演したことで知られる。劇場用長編の第一作は1974年の心理スリラー『私たちのどちらか』で、ホルスト・ボゼツキーの小説を原作とし、プロホノフが主演した。1977年の『帰結』は、同性愛を描いた自伝的小説の白黒映画化で、当時はあまりに過激とされ、最初の放送ではバイエルン放送が送信機を止めてしまったという。

転機は1981年の『U・ボート』で、公開は1982年初めである。大西洋の戦いに従事するドイツ潜水艦の乗組員たちを描いた第二次世界大戦の大作で、すぐに興行的な成功を収めたわけではなかったが、批評家には高く評価された。アカデミー賞に6部門でノミネートされ、そのうち監督賞と脚色賞はペーターゼン自身の候補だった。英国アカデミー賞とアメリカ監督組合賞にも名が挙がった。続く1984年の『ネバーエンディング・ストーリー』は初の英語作品となり、1985年にはアメリカで本格的に撮った『第5惑星』を監督したが、批評と興行の両面で成功しなかった。

1993年、クリント・イーストウッドが大統領警護官を演じた暗殺もののスリラー『ザ・シークレット・サービス』が大ヒットし、復活を遂げる。その力で、ダスティン・ホフマン主演の『アウトブレイク』(1995年)を撮った。1997年の『エアフォース・ワン』は興行的に大成功したが、批評家の評価は分かれた。この二作ではドイツ人撮影監督のミヒャエル・バルハウスと組んでいる。1998年までには、『U・ボート』をディレクターズ・カット版で再公開できるほどの地位を築いた。ハリー・ポッターの第一作の監督候補にもなったが、2000年3月に候補から退いた。

その後も『パーフェクト ストーム』(2000年)、『トロイ』(2004年)、『ポセイドン』(2006年)と大作を重ねた。『ポセイドン』は1億6000万ドルを投じたが、アメリカ国内の興行は6000万ドルをわずかに超えた程度で、海外の売り上げは1億2100万ドルを超えたという。約10年の空白を経て、2016年にドイツ語の強盗コメディ『銀行に挑む四人』で戻ってきた。バンビ賞を3度、バイエルン映画賞とドイツ映画賞も受け、ドイツ映画アカデミーの創設会員でもあった。2022年、膵臓がんのため亡くなった。

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