伝記
ピーター・ボグダノヴィッチは、1939年7月30日にニューヨーク州キングストンで生まれたアメリカ合衆国の映画監督、俳優、作家、評論家、映画史家である。父ボリスラヴはセルビア系のピアニストで画家、母ヘルマはオーストリア系ユダヤ人だった。両親は第二次世界大戦が始まる3か月前の1939年5月、母方の近親者とともに訪問者用の査証でアメリカに入国した。ボグダノヴィッチは英語より先にセルビア語を覚え、流暢に話した。生まれる前に、まだ1歳半の兄が煮えたスープの鍋をかぶる事故で亡くなっていたが、本人がそれを知ったのは7歳のときで、死の事情を知ったのは大人になってからだった。
子供のころから映画に夢中で、12歳の1952年から1970年まで、見た映画を黄色いカードに感想つきで記録し続けた。多い年には400本を見たという。1957年にニューヨークのコレジエイト・スクールを卒業し、ステラ・アドラー演劇学校で演技を学んで、舞台やテレビにも出演した。1960年代初めにはニューヨークの近代美術館で映画の上映企画を担当し、オーソン・ウェルズ、ジョン・フォード、ハワード・ホークス、アルフレッド・ヒッチコックについての小冊子を書いた。忘れられていた映画の開拓者アラン・ドワンにも光を当てた。『エスクァイア』などの雑誌に映画批評も書き、それらは後に『ピーシズ・オブ・タイム』にまとめられた。
1966年、フランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダールら、批評家から監督になったヌーヴェル・ヴァーグの人々にならって、自分も監督になろうと決意した。監督フランク・タシュリンに励まされ、妻のポリー・プラットとともに家賃を払わないままロサンゼルスへ向かった。宣伝担当者に試写会やパーティーの招待を頼んだ。ある試写でロジャー・コーマンが後ろの席にいて、『エスクァイア』に書いた映画の記事を気に入っていると話しかけ、その場で監督の仕事を持ちかけた。ボグダノヴィッチはすぐに引き受け、コーマンの下でボリス・カーロフ主演の『殺人者はライフルを持っている!』(1968年)を撮った。デレク・トーマス名義で『金星怪獣の襲撃』にも関わった。のちに、洗濯物を取りに行く役から3週間で監督になったと、コーマン流の現場を振り返っている。
ジャーナリズムに戻った彼は、『キャッチ22』の撮影現場でウェルズを取材して生涯の友人となった。ポーリン・ケイルがウェルズの貢献を軽んじる著書を出すと、『エスクァイア』で反論してウェルズの再評価に大きな役割を果たした。1970年代初めにウェルズが金銭的に苦しんだときは、ベルエアの邸宅に2年ほど住まわせた。1970年にはアメリカ映画協会の依頼でドキュメンタリー『映画の巨人 ジョン・フォード』を監督した。1971年の『ラスト・ショー』で脚色賞と監督賞の候補となり、作品賞を含む数部門がアカデミー賞にノミネートされた。1972年の『おかしなおかしな大追跡』に続いて、1973年の『ペーパー・ムーン』では、当時10歳のテータム・オニールが史上最年少でアカデミー助演女優賞を受けた。
その後は『ニッケルオデオン』『マスク』『ブロンドと柩の謎』などを撮り、トム・ペティのドキュメンタリー『ランニン・ダウン・ア・ドリーム』ではグラミー賞を受けた。私生活では、自らオーディションをしたプレイメイトのドロシー・ストラットンと交際したが、彼女は別居中の夫に射殺された。のちにドロシーの妹と結婚した。ウェルズ最後の映画『風の向こうへ』の完成にも協力した。2022年1月6日、ロサンゼルスの自宅で亡くなった。
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