伝記
シドニー・ポワチエは、1927年2月20日にアメリカ合衆国フロリダ州マイアミで生まれた俳優、監督である。黒人として初めてアカデミー主演男優賞を受賞した、黒人俳優の先駆者として知られる。両親はバハマでトマト栽培を営む農夫で、出荷先のマイアミに滞在中に母の妊娠が分かり、そこで生まれたのが彼だった。予定日より早く生まれたため、育つかどうかを心配した両親はマイアミに3カ月とどまって世話をした。アメリカで生まれたことで、彼はアメリカの市民権を持つことになった。
幼少期はバハマのキャット島で過ごし、10歳のころ一家はナッソーへ移った。そこで初めて自動車や電気、映画に触れたという。15歳で兄の家族のもとに身を寄せるためマイアミへ送られ、その後ニューヨークに出て、皿洗いなどの仕事を転々とした。第二次世界大戦中の1943年には年齢を偽って陸軍に入隊したが、病院での患者の扱いに心を痛め、精神を病んだふりをして除隊したとされる。生年月日に諸説があるのは、こうした経緯のためだといわれる。
除隊後はアメリカン・ニグロ・シアターに入り、俳優を志した。最初のオーディションでは台本を読めずに落ちたが、年配の給仕が夜ごと新聞で読み方を教えてくれたと伝えられる。バハマ訛りが抜けず、当初は裏方に回されたともいわれるが、発音や演技の技術を磨き、1946年には黒人俳優だけの舞台でブロードウェイに初出演した。1950年の映画『復讐鬼』で本格的に映画に登場し、1955年の『暴力教室』の生徒役で注目を集めた。1958年の『手錠のままの脱獄』ではトニー・カーティスとともにアカデミー主演男優賞の候補となり、黒人俳優として初めてこの部門にノミネートされた。当時のハリウッドで、黒人の主要なスター俳優は彼ひとりだったという。
当時の黒人俳優は端役や悪役が中心で、力強い肉体を売りにするアクション系の俳優が人気だった。ポワチエはあえて肉体ではなく、演技と知性の印象で勝負することを意識した。その成果として、1963年の『野のユリ』でアカデミー主演男優賞とゴールデングローブ賞の主演男優賞(ドラマ部門)を受けた。授賞式では、自分ひとりで得たものではなく、努力してきた何百人もの黒人映画人の努力が実ったものだと語っている。1967年には『招かれざる客』『夜の大捜査線』『いつも心に太陽を』と、人種差別の問題を正面から扱う作品に続けて出演し、多くの支持を得た。
一方で、同胞の黒人からは、白人が望む素直で礼儀正しい理想的な黒人ばかりを演じているとして、「ショーウィンドウの中の黒人」と揶揄された。1965年のワッツ暴動以降、こうした役柄は時代に合わなくなり、ブラックスプロイテーション映画の台頭とともに、スクリーンでの活躍は減っていった。1970年代以降はポール・ニューマンらとプロダクションを設立し、監督業にも挑んだ。私生活では1950年に結婚して4人の娘をもうけたが、1965年に離婚し、1976年には女優のジョアンナ・シムカスと再婚した。1964年10月には『野のユリ』の公開に合わせて来日している。
晩年は、1997年からバハマの駐日特命全権大使を10年間務め、2001年にアカデミー名誉賞、2009年にバラク・オバマ大統領から大統領自由勲章を受けた。1997年のテレビドラマ『マンデラとデクラーク』ではネルソン・マンデラを演じている。2022年1月6日、ロサンゼルスの自宅で死去した。彼が拓いた道の先で、多くの演技派の黒人俳優が活躍するようになった。
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