伝記
シニシャ・ミハイロヴィチは、1969年2月20日にヴコヴァルで生まれ、2022年12月16日に没したセルビアの元サッカー選手、指導者である。ポジションはMFやDFで、フリーキックの名手として知られた。
労働者の家庭に生まれ、父はボスニア系セルビア人、母はクロアチア人だったとされる。ボロヴォ・ナセリェで弟とともに育ち、地元クラブのボロヴォでサッカーを始めた。1986年5月25日、17歳でトップチームの試合に初出場してゴールを挙げた。その後はディナモ・ザグレブなどからも関心を寄せられたが、条件が合わずボロヴォに残った。1988年にヴォイヴォディナへ移り、チームはユーゴスラビア・リーグで優勝した。クロアチア独立戦争では、故郷の家がクロアチア側の部隊に破壊され、両親は避難を余儀なくされた。その部隊には幼なじみの親友もいたという。
ヴォイヴォディナでは1989-90シーズンにチャンピオンズカップへ出場したが、1回戦でハンガリーのホンヴェードに敗れた。1990年12月10日、かつての恩師リュプコ・ペトロヴィチが率いるレッドスター・ベオグラードへ移籍した。当時の国内移籍金の最高額とされ、左サイドの中盤で力強さを発揮し、セットプレーで得点することが期待された。1990-91シーズンのチャンピオンズカップ準決勝、バイエルン・ミュンヘンとの第2戦では得意のフリーキックで先制点を挙げ、終盤にはクロスで相手のオウンゴールを誘ったとされる。決勝のオリンピック・マルセイユ戦ではPK戦でキックを決めて優勝に貢献し、同年12月のインターコンチネンタルカップでも優勝した。
1992-93シーズンにセリエAのローマへ移り、ブレシア戦で直接フリーキックからセリエA初ゴールを挙げた。1994-95シーズンからはサンプドリアでプレーし、監督エリクソンのもとで初めてリベロを務めた。1998-99シーズンにはエリクソンを追ってラツィオへ移った。同シーズンのサンプドリア戦ではフリーキックだけでハットトリックを達成し、カップウィナーズカップでも優勝した。翌シーズンにはセリエAとコッパ・イタリアの2冠に貢献した。2004-05シーズンにインテルへ移り、2005-06シーズンにはセリエA優勝を経験した。同シーズンのアスコリ戦で挙げた直接フリーキックのゴールは、セリエA史上最多に並ぶ28得点目であり、この記録はピルロと分け合っている。
代表では1991年5月にユーゴスラビア代表でデビューした。1992年の欧州選手権には選ばれたが、内戦への制裁で出場できなかった。1998年のワールドカップでは久々に国際舞台に戻った代表の一員となり、イラン戦でフリーキックを決め、アメリカ戦ではコムリェノヴィッチの決勝点を演出してベスト16入りに貢献した。2000年の欧州選手権にも出場した。1999年にはユーゴスラビア年間最優秀選手に選ばれた。
引退後はインテルでマンチーニのアシスタントコーチを2年間務めた。2008年11月にボローニャの監督となり、翌年4月に解任された。その後はカターニア、フィオレンティーナ、セルビア代表、サンプドリア、ミラン、トリノ、スポルティングCPを率いた。サンプドリアでは2014-15シーズンにヨーロッパリーグ出場権を得る躍進へ導いた。2019年1月にはボローニャの監督に戻った。同年7月の記者会見で白血病であることを公表し、2022年9月に解任された。同年12月16日、白血病のためローマの病院で亡くなった。
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