伝記
カルロ・アツェリオ・チャンピは、1920年12月9日にトスカーナ地方のリヴォルノで生まれた、イタリアの政治家、銀行家である。第50代首相を務め、第10代大統領にもなった。父ピエトロは眼鏡商、母マリア・マジーノの一族はピエモンテ州のクーネオの出身だった。イエズス会の学校で優秀な成績を収めて2学年を飛び級し、高校を終えるとピサ高等師範学校に試験で入った。在学中は外国を旅し、数か月間ドイツのライプツィヒ大学に留学したこともある。1941年に古典文献学とギリシャ文学の論文で、人文学の学位を得た。
第二次世界大戦が始まると召集され、陸軍中尉としてアルバニアに赴いた。1943年にイタリアが連合国に降伏すると、ムッソリーニのイタリア社会共和国を正統と認めることを拒み、アブルッツォ地方のスカンノに赴いて、反ファシズムの抵抗運動の行動党に加わった。反ドイツ、反ファシストのパルチザン運動に参加し、約60人の仲間とともにマイエッラ山地を越えてドイツ軍から逃れ、連合国軍の側に出た。この山越えは長く厳しく、数人が命を落としたが、チャンピは別の抵抗運動の人々と合流し、再建されたイタリア軍に入って連合国とともに戦った。
戦後の1946年にピサ大学で法学の学位を得た。ピサ高等師範学校で出会ったフランカ・ピッラと同じ年に結婚し、2人の子をもうけた。文学の教師になるつもりだったが、イタリア銀行の採用試験を受けて入行し、輝かしい銀行員の経歴を歩んだ。1976年に専務理事、1978年に副総裁となり、1979年10月、パオロ・バッフィの辞任を受けて総裁に任命された。前任のバッフィは信用機関への監督を怠ったとして捜査を受けて辞任したが、のちに完全に嫌疑が晴れたという。1993年まで総裁を務め、1991年にはパヴィア大学から経済学の名誉博士号を授与されている。
1993年4月、汚職摘発「タンジェントポリ」の後の政界再編の最中に、スカルファロ大統領から首相に指名された。戦後のイタリアで初めて、議員でも政党員でもない人物が首相の座に就いた。この政権は5つの政党に支えられた、専門家を閣僚に起用する「技術者」内閣で、経済学者のベニアミーノ・アンドレアッタが外務大臣に起用された。次の総選挙までの国政を担い、選挙制度の改革と財政の再建を進めた。内閣は1994年5月に総辞職し、大統領は議会を解散した。
1996年5月からは、プローディ内閣とダレーマ内閣で国庫相を務めた。マーストリヒト条約が通貨統合に参加する国に課した基準を満たすため、イタリアの債務の削減に取り組み、郵便事業の民営化にも着手した。イタリアを欧州経済通貨同盟の第三段階、つまり単一通貨ユーロの導入の第一陣に導いたのは、チャンピの業績によるところが大きいとされる。
1999年5月13日、ほとんどの政党の支持を得て、第1回の投票で大統領に選ばれた。990人の選挙人のうち707票を集め、同月18日に宣誓した。国民に人気があり、複数の政党から求められたが、2期目の出馬は断った。その後は終身上院議員となった。2016年の夏ごろからローマの病院に入院し、9月16日に95歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
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