伝記
ウァラメールは、5世紀のゴート人の指導者の一人である。初めはフン族の王アッティラ配下の軍人として、後には東ローマ帝国の軍人として活躍した。同時代に東ローマ帝国で活躍したゴート人の指導者ティウディミールやウィデメールとともに「兄弟王」と呼ばれたが、三者の間に直接的な血縁があったかどうかは不明である。ゲティカの著者ヨルダネスによれば、アマル家の出身でウァンダラリウスの子、ティウディミールとウィデメールの兄とされ、東ゴート人の王として447年から465年(468年・469年、あるいは471年とも)にかけて兄弟とともに君臨したという。
ウァラメールは447年には既に、ドナウ川を越えて東ローマ帝国を荒らし回ったフン族の略奪に参加していた。ヨルダネスによれば、アッティラは彼を高く評価していたという。451年のカタラウヌムの戦いでは、兄弟とともにゴート人の集団を率いてアッティラの下で西ローマ帝国の軍団と戦った。453年にアッティラが没すると、フン族を中心とした連合体は徐々に分裂を始めた。ウァラメールは454年のネダオ河畔の戦いでフン族を破って連合から離脱し、ティウディミールやウィデメールらとともに東ローマ皇帝マルキアヌスに雇われた。同じ年にパンノニアに定住する許可を得たとされ、そこで東ゴート王国を三つの地区に分け、それぞれを兄弟が治めたが、王の称号を持ったのはウァラメールだけだったという。マルキアヌスによってスラヴォニアの守備隊に配属されたウァラメールは、456年か457年ごろまで、繰り返し侵入を試みるアッティラの息子の一人デンギジクらを撃退し続けた。
そのころコンスタンティノープルの宮廷では、ゴート人の指導者の一人テオドリック・ストラボが、東ローマ帝国の実質的な支配者であるアラン人の将軍アスパルの姻戚であるとして、大変な厚遇を受けていた。この待遇の格差に不満を抱いたウァラメールは、457年に皇帝レオ1世が毎年の給付を取りやめたこともあって、459年に抗議の兵を挙げた。イリュリクムに侵入し、のちに西ローマ皇帝となるアンテミウスの率いる軍に敗れたともされる。争いは461年か462年まで続き、甥のテオドリックが人質としてコンスタンティノープルに送られ、レオ1世は年に金300リーブラを支払うことに同意した。
最期については伝承が一定しない。フン族やサルマタイ人らの連合が戦争を仕掛けてきたのは469年のことで、これはアスパルから実権を取り戻そうとしていたレオ1世が、アスパルと結びつきの強いゴート人を排除するための企てだったと考えられている。両陣営はパンノニアのボリア川で衝突したが、ウァラメールは開戦の直前に落馬して死亡した。一方で、スキリア人がスエビ族の王フニムンドにそそのかされて王国に侵入し、その戦いで馬から落とされて敵に殺されたという伝えもあり、その時期は465年ごろ、468年か469年、あるいは471年ごろなど、研究者によって見解が分かれる。
不慮の死にもかかわらず、戦いはティウディミールらの活躍もあってゴート人の勝利に終わった。コンスタンティノープルではアスパルが復権し、レオ1世もゴート人の排除を断念して、懐柔へと方針を転換した。レオ1世は人質としてコンスタンティノープルに留め置いていたティウディミールの子テオドリックを解放し、死んだウァラメールの後任としてスラヴォニアの守備隊に配属した。ウァラメールの跡は、王としては弟のティウディミールが継いだとされる。
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