伝記
マルクス・アウレリウス・クラウディウス・ゴティクスは、ローマ帝国の軍人皇帝時代の皇帝である。クラウディウス2世とも呼ばれ、268年から270年まで在位した。生年は213年または214年の5月10日とされ、より遅い219年か220年を挙げる研究者もいるが、多数の歴史家は前者に従う。統治は比較的堅実で、たびたび北方民族の襲来を破った。ローマ市民には人気があり、神として祀られた。弟にクィンティッルスがいる。
素性ははっきりしない。パンノニアの出身ともダルマチアの出身ともいわれ、ドナウ川の近くで生まれたのかもしれない。皇帝ゴルディアヌス2世の私生児だという噂もあったが、おそらくは卑賤の出だったと考えられている。青年期に関する最も重要な資料は『ローマ皇帝群像』であるが、この書には作り話や追従的な称賛が多く、他の史料で補いながら、細心の注意を払って用いなければならない。同書は、デキウス帝の時代に軍の護民官を務めたとし、この皇帝から、力の強さを見せて褒賞を受けたとも書くが、信頼性は低い。また、ある伝説は、彼が馬の歯を拳の一撃で折ったと語る。四世紀には、コンスタンティヌス大帝の父コンスタンティウス1世の親族に、彼が位置づけられた。しかしこの系譜は、コンスタンティウス1世の孫コンスタンティヌス2世による捏造とみる見方が有力で、血縁関係はなかったと考えられている。
260年代のローマ帝国は、帝国の中核、ガリア帝国、パルミラ帝国の三つに分裂し、不安定な状態にあった。皇帝ガッリエヌスは、西のポストゥムスを倒せず、東ではオダエナトゥスの半独立の統治を受け入れざるを得なかった。268年にオダエナトゥスが殺され、ガッリエヌスも自軍の反乱で命を落とした。ガッリエヌスを殺したとの疑いを受けたクラウディウスは、部下の軍に皇帝と宣言されたが、その疑いが証明されたことはない。彼は元老院に、ガッリエヌスの家族と支持者の命を助けるよう求めたという。ローマの敵には容赦がなく、その点が人気の理由だったとされる。
皇帝ガッリエヌス死後の混乱を平定し、帝位に就いてほどなく、パンノニアに侵入したゴート族を、自ら出陣して破った(ナイススの戦い)。史料により、これは翌年とするものもある。このとき、のちに皇帝となる将軍アウレリアヌスも従軍した。これによってゴート族をドナウ川の向こうに後退させ、ゴート族を征した者という意味の「ゴティクス」の添名を得た。同じ年には、アルプスを越えて来寇したゲルマン人の一氏族アラマンニ族を、ただちに軍を向けて破った。また、ガリアやヒスパニアに割拠するガリア帝国の攻略にも取り組んだが、皇帝ウィクトリヌスの奮戦に遭った。ガリア帝国が最終的に滅ぼされたのは、アウレリアヌスの治世である。
269年にヴァンダル族がパンノニアに来寇すると、これに兵を向けたが、陣中で疫病にかかった。この病は、当時属州を荒らしたキプリアヌスの疫病だった可能性が指摘されている。270年に没したが、没月は史料により異なり、1月から4月とするものも、8月か9月とするものもある。死の地はシルミウムと伝えられる。後継には弟クィンティッルスが即位したが、まもなくアウレリアヌスに打倒された。彼は、のちにローマを立て直す一連の軍人皇帝の、最初の一人と位置づけられる。
同じ年に亡くなった人物
- プロティノス (270年没)
- グレゴリオス・タウマトゥルゴス (270年没)
- マルクス・ピアウォニウス・ウィクトリヌス (270年代没)
- 中川王 (270年没)
- クィンティッルス (270年没)
同じ地域に関係する人物
- ルーア (434年没)
- アッティラ (453年没)
- エラク (454年没)
- ウァラメール (469年没)
- Filip Visnjic (1834年没)