HISTORICAL PERSON · 2023年没

デヴィッド・クロスビー

米国のミュージシャン。バーズやクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングに在籍し、1960〜70年代を代表するロックバンドで活躍した。

生涯
2023年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / サンタイネス)
出生地
アメリカ合衆国(ロサンゼルス)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

デヴィッド・クロスビー(本名デヴィッド・ヴァン・コートランド・クロスビー)は、1941年8月14日に生まれ、2023年1月18日に亡くなったアメリカ合衆国のミュージシャン、シンガーソングライターである。バーズやクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングといった、1960年代から1970年代を代表するロック・バンドに在籍した。イギリスの音楽誌が選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガーでは第99位に入っている。

ロサンゼルスの出身で、父は『真昼の決闘』などで知られ、1930年にアカデミー撮影賞を受けたハリウッドの撮影監督フロイド・クロスビーである。1960年代初頭にはシカゴのコーヒークラブでフォークシンガーとして出演するようになり、親しくなったテリー・キャリアーとニューヨークのグリニッジ・ビレッジに移ったが、デビューや録音の機会は得られなかったという。ニューヨークでは兄イーサンが在籍していたレス・バクスターのグループに一時加わり、シングルを数枚録音したものの、大きな成果はなかった。シカゴに戻るとキャリアーの仲介でロジャー・マッギンと出会い、1965年にジーン・クラーク、クリス・ヒルマン、マイケル・クラークを加えてバーズを結成した。

バーズは「ミスター・タンブリン・マン」などのヒットで、一躍1960年代のアメリカ音楽を代表するグループとなった。クロスビーの甘いテナーの高音はバーズの三声コーラスの特徴で、リズム・ギターでも独特のカッティングで音に変化をもたらした。自作曲ではシタールやアカペラ、変則チューニングなどを取り入れ、実験的な試みを担った。1967年10月に脱退したが、自作「トライアド」の収録を反対されたことなどが原因といわれる。1968年にはジョニ・ミッチェルの初作をプロデュースし、スティーヴン・スティルス、グラハム・ナッシュとクロスビー・スティルス&ナッシュを結成した。1969年5月に発表した最初のアルバムには「グウィニヴィア」や「木の舟」が収められた。1970年にニール・ヤングが加わり、3月の『デジャ・ヴ』は全米1位となった。クロスビーは表題曲や「カット・マイ・ヘア」を提供した。1971年2月には初のソロ・アルバム『イフ・アイ・クッド・オンリー・リメンバー・マイ・ネーム』を出し、全米12位を記録した。発売時の評判は芳しくなかったが、のちに再評価されている。

メンバー間の軋轢でCSN&Yは活動を止め、ナッシュとのクロスビー&ナッシュで活動した。1977年にはCSNを再結成し、アルバム『CSN』は全米2位に達した。しかし長年の薬物中毒が創作に支障をきたし、1985年には銃器法違反で実刑判決を受けた。刑務所生活ののち治療を果たして社会復帰し、1988年に18年ぶりにCSN&Yを再結成して『アメリカン・ドリーム』を出した。1995年には薬物の後遺症で肝移植を受け、その際に実の息子ジェイムス・レイモンドと出会った。二人はキーボードのレイモンド、ギターのジェフ・ピーヴァーとともにCPRを組み、2004年まで活動した。

2014年に約20年ぶりのアルバム『クロズ』を出し、2016年には不仲からCSNの活動停止がナッシュによって発表された。その後も『ライトハウス』や『フォー・フリー』など作品を出し続け、生前最後のリリースは2022年10月のライブ・アルバムになった。2023年1月18日の夜、81歳で死去した。死の約10日前にはナッシュに留守番電話で謝罪の話し合いを望むと伝えており、ナッシュも承諾の返事を送っていたが、話し合いはかなわなかった。

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