伝記
カルロス・サウラ(1932年1月4日 - 2023年2月10日)は、スペイン北東部のウエスカ出身の映画監督、脚本家である。父方の家はムルシアの出で、母はピアニスト、兄は画家だった。ルイス・ブニュエル、ベルランガ、アルモドバルらと並ぶスペイン映画の大家とされる。
十代のころに写真を学び、1949年から写真家としても活動した。1950年には16ミリカメラで初の長編映画を撮ったという。ウエスカからマドリードに出て、いったんは工学の道に進んだが、写真と映画への情熱から工学を捨て、1952年に映画調査・研究所に入った。映画製作に加え、ジャーナリズムの学校でも学んでいる。1957年に同研究所を卒業し、『日曜日の午後』でスペインで映画を作るのに必要な監督資格を得た。1958年から同校で教えたが、1963年にはフランコ政権の検閲が原因で去ることになった。
在学中の1955年に短編の製作を始め、1958年に『クエンカ』で長編の監督としてデビューした。この作品はサン・セバスティアン国際映画祭で賞を得たと伝えられる。続く『ロス・ゴルフォス』はマドリードの最貧地区を社会学的な視点で撮った作品で、スペインのネオレアリズムの形成を試みたものだった。やがて検閲をかわすため、隠喩や象徴を重ねた表現へと進んだ。1966年の作品は戦争の傷跡を、狩りに集まった人々の姿を通して描き、ベルリン国際映画祭で監督賞を得て国際的な名声をつかんだ。1967年からは製作者エリアス・ケレヘタと組み、抑圧された世代の心理を探る作品を続けた。1968年の作品でも、二度目のベルリン監督賞を受けた。1974年にはカンヌ国際映画祭で審査員賞、フランコの死後の1976年には『カラスの飼育』で同映画祭の審査員特別グランプリを受けた。1979年の『ママは百歳』は、翌1980年のアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。1960年代から70年代にかけて、スペインを代表する監督だった。
1980年には第1回スペイン映画国民賞を受けた。1981年の作品でベルリン国際映画祭の金熊賞を得たのち、『血の婚礼』(1981年)、『カルメン』(1983年)、『恋は魔術師』(1986年)を撮り、フラメンコ三部作として知られる。『カルメン』はカンヌで芸術貢献賞を受け、アカデミー賞にも候補となった。劇的な内容とフラメンコの踊りを組み合わせたこの連作で、サウラの名はさらに広まった。1988年の『エル・ドラド』はスペイン史上最高の製作費をかけた作品となり、1991年には『歌姫カルメーラ』でゴヤ賞の作品賞と監督賞を受けた。1992年にはバルセロナ五輪の公式映像ディレクターに選ばれ、1993年に『マラソン』を発表した。晩年も音楽や舞踊と映像を結ぶ作品を撮り、フラメンコやスペインの伝統舞踊を取り上げた作品が多い。2004年にヨーロッパ映画賞の生涯貢献賞を受け、2008年にはムンバイ映画アカデミーから功労賞も授与された。
私生活では3度結婚し、4人の女性との間に少なくとも7人の子をもうけた。1957年に結婚したアデラ・メドラーノとの間の次男アントニオは映画製作者で著作家、3度目の妻エウラリア・ラモンとの長女アンナは女優である。2022年に自ら監督・主演したドキュメンタリー『壁は語る』が最後の作品となり、2023年2月10日、マドリード近郊の自宅で呼吸不全のため亡くなった。
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