伝記
コンスタンティノス2世(1940年6月2日 - 2023年1月10日)は、ギリシャ王国の最後の国王(在位1964年 - 1973年)である。アテネ近郊のプシヒコで、パウロス1世とハノーファー家出身のフリデリキ王妃の第2子として生まれた。姉はのちのスペイン王妃ソフィアである。
1歳のとき枢軸軍がギリシャに侵攻し、一家はエジプトや南アフリカでの亡命生活を送った。帰国後はアテネのアナヴリタ学院で学び、のち軍の学校に進んだ。1947年に伯父ゲオルギオス2世が亡くなって父が王位に就くと、王位継承者となった。スポーツに秀で、1960年、20歳でローマ五輪に出場し、セーリングのドラゴン級で金メダルを獲得した。ギリシャのチームが近代五輪でこの種目の金を得たのは初めてだったという。水泳も得意で、空手の黒帯でもあり、国のボーイスカウトの長として1963年の世界ジャンボリーの議長も務めた。
1964年、父王の崩御により即位した。同年、デンマーク女王マルグレーテ2世の妹アンナ=マリアと結婚した。二人はともにクリスチャン9世の玄孫にあたる。若い王は、経験が浅く、保守的な母の影響を受けていると見る向きも世論には多かった。当時のギリシャは内戦の傷が癒えず、右派の国民急進同盟と、ゲオルギオス・パパンドレウ率いる中道の中央同盟に政治が二分されていた。パパンドレウは1964年2月の総選挙に勝ち、11年続いたカラマンリスの長期政権を終わらせて首相となっていた。共和主義者でありながら、軍の人事を王が承認することは認めた。それでも王との関係はしだいに緊張し、国軍の指揮権をめぐって争った。1965年にパパンドレウは辞任したが、政局は不安定になり、共産化の恐れも取りざたされるなかで、1967年4月21日に軍事クーデターが起きた。軍事政権への忠誠の宣誓をしたことで、王は国民の強い反感を買ったとされる。同年12月、王は軍に反撃を試みたが失敗し、家族を連れてローマへ脱出した。
王不在のまま形だけの君主制が続いたが、1973年に軍事政権が君主制の廃止と共和制への移行を宣言した。民政に戻った後の1974年、カラマンリス政権下で二度目の国民投票が行われ、大差で君主制の廃止が正式に決まった。混乱の原因は王にあるとする意見もあり、カラマンリスは王を「パウロス1世のわんぱく坊主」と軽蔑していた。国民投票の結果が決まった1974年12月8日には、「今日、国家の癌が国民全体により否定された」とラジオで演説した。
亡命後の王は王室財産への権利やギリシャの市民権を主張し、しばらく共和制政権から一時帰国を拒まれた。初めて帰国できたのは1981年で、母の王太后フレデリキをタトイの王家の墓所に葬るためだった。財産問題で欧州人権裁判所に提訴する際には姓が必要となり、「ギリシャの」を意味する語を選んだ。2004年のアテネ五輪には国際オリンピック委員会の委員として出席し、デンマークの外交旅券で入国して、大統領とも会談した。長くロンドンに暮らし、英国王チャールズ3世とは親しく、ウィリアム王子の名付け親でもあった。2013年以降はアテネに戻り、2023年1月10日、82歳で亡くなった。1月16日にアテネの教会で営まれた葬儀には、欧州各国の王族が多数参列した。アンナ=マリアとの間には3男2女がいる。長女は1965年生まれのアレクシアで、1967年生まれの長男パウロスは元王太子である。ほかにニコラオス、セオドラ、フィリッポスがいる。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・ウィンストン (2023年没)
- ロバート・ソロー (2023年没)
- トム・ウィルキンソン (2023年没)
- アントニオ・カルバハル (2023年没)
- アニー・ワーシング (2023年没)
同じ地域に関係する人物
- パライパトス (紀元前360)
- コンスタンディノス・ツァルダリス (1970年没)
- テアイテトス (数学者) (紀元前369年没)
- ミルティアデス (紀元前489年没)
- Perikles Kakousis (1939年没)