HISTORICAL PERSON · 2023年没

ハリー・ベラフォンテ

アメリカの歌手、俳優、社会活動家。「バナナ・ボート」が世界的ヒットとなり、アフリカ支援曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」の制作にも携わった。

生涯
2023年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / アッパー・ウエスト・サイド)
出生地
アメリカ合衆国(ハーレム)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ハリー・ベラフォンテは、1927年3月1日にニューヨーク市ハーレムで生まれ、2023年4月25日に96歳で亡くなったアメリカ合衆国の歌手、俳優、社会活動家である。本名はハロルド・ジョージ・ベランファンティ・ジュニアで、両親はジャマイカ出身とされる。父の出生地についてはマルティニークともいわれ、はっきりしない。父は料理人、母は家政婦として働いた。母方には父がスコットランド系、父方にはオランダ系ユダヤ人の血筋があったとされ、カトリックとして育ち、教区の学校に通った。

1932年から1940年までは祖母のもとでジャマイカに暮らし、現地の学校に通った。ニューヨークに戻って入った高校は短期間で退学している。後に、診断されていなかった読字の困難と片目の失明が学業の妨げになったと伝えられた。その後は海軍に入り、第二次世界大戦中に勤務した。1940年代には用務員の助手をしていて、住人から謝礼にアメリカン・ニグロ・シアターの切符をもらったことが演劇との出会いとなった。同じく生活に苦しんでいたシドニー・ポワチエと親しくなり、二人は一席分だけ切符を買い、幕間に席を交代して芝居を見たという。1940年代の末にはニュー・スクールのドラマティック・ワークショップで、エルヴィン・ピスカトールのもと、マーロン・ブランドらとともに演技を学んだ。

演技の授業料を稼ぐため、ニューヨークのクラブで歌い始めた。初めて聴衆の前に立ったときの伴奏には、チャーリー・パーカーのバンドがついていた。1949年にレコード歌手としてデビューしたが、まもなく民謡に関心を移し、米国議会図書館の民謡資料から曲を学んだ。1953年にRCAビクターと契約し、1974年まで同社でのみ録音した。1954年にはブロードウェイのレビューでの出演によりトニー賞を受け、映画『カルメン』にも出演した。1956年のアルバム『カリプソ』は、単独の歌手のLPとして初めて年間100万枚を超えて売れたとされ、ジャマイカの労働者がバナナを船に積むときの労働歌をもとにした「バナナ・ボート」が世界的な大ヒットとなって、一躍スターとなった。「マティルダ」や「ダニー・ボーイ」など、ヒット曲が続いた。1957年には映画『日のあたる島』に出演した。日本でも浜村美智子や江利チエミが「バナナ・ボート」をカバーしてヒットし、1960年には日本公演が開かれ、コンサートを観た三島由紀夫はその歌声を絶賛した。

フォークリヴァイヴァルを支えた一人で、核兵器、人種差別、戦争への抗議を込めた曲も多く歌い、公民権運動やベトナム戦争・反核の運動にも関わった。1960年には自身のテレビ番組のプロデューサーとして、黒人で初めてエミー賞を受けた。マッカーシズムの赤狩りに巻き込まれ、ハリウッドのブラックリストに名が載ったこともある。1963年、バーミングハム運動の中で投獄されたキング牧師のために保釈金を用意し、釈放させた。キング牧師やロバート・ケネディとは個人的にも親交があった。1985年にはアフリカの飢餓救済のため「USAフォー・アフリカ」を提唱し、多くのスターを集めて「ウィ・アー・ザ・ワールド」を発表した。晩年も映画に出演し、最後の長編出演は2018年の『ブラック・クランズマン』である。1989年にケネディ・センター名誉賞、1994年に国家芸術勲章を受け、2022年にはロックの殿堂入りも果たした。2023年4月25日、うっ血性心不全のため、マンハッタンの自宅で死去した。

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