伝記
レオ2世は、東ローマ帝国の皇帝(在位474年)である。レオ朝の第2代にあたり、外祖父は初代皇帝レオ1世、父はイサウリア出身の貴族ゼノン、母はレオ1世の娘アエリア・アリアドネである。皇帝でありながら在位はわずか一年に満たず、幼い子どものまま世を去った。
生年ははっきりしない。ヨハネス・マララスとその流れをくむ年代記が、死去時に7歳だったと伝えることから、467年ごろの生まれとされてきた。一方、柱頭行者ダニエルの聖人伝は、誕生をゼノンとアリアドネの結婚、さらにゼノンが469年に執政官へ昇り軍司令官に任じられたことと結びつけている。この記述に基づいて結婚を468年とする研究者もおり、その場合の誕生は469年前後になる。467年から469年のあいだとするのが穏当な見方であり、歴史家のあいだでも正確な年表には議論がある。ノーマン・ベインズは7年目に亡くなったとみて468年生まれと解し、レーン・フォックスは471年生まれを唱えたが、多くの歴史家は受け入れていない。
祖父レオ1世には男子の跡継ぎがなく、孫のレオ2世は早くから後継者と目された。とくに471年に将軍アスパルが排除されてからは、その傾向が強まったという。レオ1世はまず彼を副帝に任じ、その時期は472年ごろとみられる。この任命は、後世の歴史家ニケフォロス・カリストスの記述によって裏づけられる。副帝は皇帝に次ぐ最高位で、通常は後継者に与えられる。アスパルが470年に自分の息子パトリキウスを副帝にしていたため、レオ2世の任命は471年より前とは考えにくい。またレオ1世は娘婿のゼノンを副帝にすることも考えたが、ゼノンが都で不人気だったため思いとどまったとも推測されている。東ローマ帝国では王朝の原理がそれほど強くなく、先代のマルキアヌスも祖父自身も宮廷内の駆け引きの末に帝位へ就いていたため、孫の地位を固めようとしたのだと考えられている。473年の秋には共同皇帝として戴冠した。
474年1月にレオ1世が没すると、レオ2世が帝位を継いだ。しかしまだ7歳前後の幼年だったため、実際の政務は父ゼノンが担い、ゼノンも共同皇帝として即位した。レオ2世は同じ年の秋、病のためか自然に死去したと見られ、没日は11月17日とされる。その死後、ゼノンが正帝として単独で統治することになった。
没年齢と没年をめぐっては異説がある。復活祭年代記は同年11月の死去では通説と一致するが、年齢を17歳としており、これは誤りと思われる。またトンヌンナのウィクトルは、475年にゼノンが息子を殺そうとしたが母アリアドネが修道院に隠して救い、ユスティニアヌス1世の時代まで生き延びたと記している。ウィーンのアドンも、アリアドネが別の子を身代わりに立て、レオ2世自身はコンスタンティノープルの教会の聖職者となって同じ時代まで生きたと述べる。しかしこの話は伝説的で、アルマトゥスの息子バシリスクスとの混同である可能性が高いとされる。このバシリスクスは476年に副帝となり、父がゼノンに殺されたあとアリアドネの介入で救われ、のちにキュジコスの司教になったと考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- レオ1世 (東ローマ皇帝) (474年没)
同じ地域に関係する人物
- アガペトゥス1世 (ローマ教皇) (536年没)
- Hanzade Sultan (1650年没)
- ミカエル7世ドゥーカス (1090年没)
- Jale Inan (2001年没)
- メフメト3世 (1603年没)