伝記
ヨーゼフ1世は、神聖ローマ皇帝で、在位は1705年から1711年である。ボヘミア国王とハンガリー国王も兼ね、ハンガリー王としての在位は1687年から1711年に及ぶ。1678年7月26日にウィーンで生まれ、父は皇帝レオポルト1世、母は三人目の妃エレオノーレ・マグダレーネである。ヨーゼフは父の三男で七番目の子にあたり、先妻たちが産んだ六人の異母きょうだいがいた。弟にのちの皇帝カール6世がいる。
幼いころから後継者として育てられ、ザルム侯カール・テオドールから厳しい教育を受けて、語学に長けた。かつてプロテスタントだった教師の影響もあってか、両親や親族ほど敬虔なカトリックではなく、初期の啓蒙の時代に傾く人物に育った。熱中したのは音楽と狩猟で、父や祖父と同じく作曲もした。標語は「愛と畏れによって」である。1687年12月9日、9歳でハンガリー国王に即位し、1690年1月23日、11歳でローマ王に選ばれた。軍務に就いたのは、スペイン継承戦争が始まった1702年に、帝国軍の将バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムとともにランダウ包囲戦に加わったときだけである。
1705年に父が没して即位すると、改革を望む助言者を周りに置き、若いウィーン宮廷は新しい計画に意欲を燃やした。「先を見る君主」と評される。枢密顧問官を減らし、官僚制を能率化し、中央機関を近代化して、慢性的に苦しいハプスブルク家の財政をある程度立て直した。弟カールをスペイン王にするため、父の代から続くスペイン継承戦争を続け、全面的に支援したプリンツ・オイゲンの勝利で、イタリアにおけるオーストリアの優位を築いた。イタリアでの帝国の権利や領土を主張した際には、マントヴァ公国をめぐり教皇と戦火を交えかけ、1708年6月16日には教皇クレメンス11世から破門を示唆された。
ハンガリーでは、父から受け継いだクルツ党の反乱があり、トランシルヴァニアの貴族らが再び蜂起して、一時はウィーン近くにまで迫った。反乱の指導者はラーコーツィ・フェレンツ2世である。ヨーゼフは軍を動かさざるを得なかったが、先代までと違い、指導者を処刑して見せしめにはせず、妥協による和平を認めた。長い目で見ればハンガリーのハプスブルク領への統合を進めたとされる。ラーコーツィはのちにオスマン帝国へ逃れた。カルヴァン派の多いハンガリーの宗教問題に配慮して親カトリックの政策を見直し、1706年に東方正教の臣民への信仰の自由を確認し、1708年にはクルシェドル府主教座の設立を承認した。一方、1710年にはロマに対する父の追放令を延長している。
父の専制的な措置の多くを覆して反対派をなだめたことでも知られる。ヨーゼフは1711年4月17日に没した。皇后アマーリア・ヴィルヘルミーネとの間の男子は早世しており、弟がカール6世として即位してスペイン王位を断念した。ヨーゼフは国事詔書による相続問題の解決に着手し、弟が引き継いだ。カール6世にも男子がなく、娘マリア・テレジアを継承者としたため、ヨーゼフの娘で、ポーランド王アウグスト3世の妃マリア・ヨーゼファと、のちの皇帝カール7世の妃マリア・アマーリエの夫が継承権を求め、オーストリア継承戦争が起こった。ウィーン8区のヨーゼフシュタットは彼の名に由来する。
同じ年に亡くなった人物
- ニコラ・ボアロー=デプレオー (1711年没)
- ルイ (グラン・ドーファン) (1711年没)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラー (1711年没)
- フィリップ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯) (1711年没)
- イェジー・シェミギノフスキ=エレウテル (1711年)
同じ地域に関係する人物
- Andreas Stadler (1941年没)
- オイゲン・フォン・ザヴォイエン (1736年没)
- ギュンター・アンダース (1992年没)
- ヨーゼフ・クリーフーバー (1867年没)
- セルゲイ・ボルトキエヴィチ (1952年没)