伝記
リチャード・クロムウェルは、イングランドの政治家で、父オリバーの後を継いで第2代護国卿となった人物である。1626年10月4日にハンティンドンで生まれた。清教徒革命の指導者オリバー・クロムウェルと妻エリザベス・バウチャーの三男で、弟にヘンリーがいる。幼少期のことはよくわかっていないが、兄弟とともにエセックスのフェルステッド校で学んだ。大学に通った記録はなく、1647年5月にリンカーン法曹院に入った。1640年代末にフェアファクスの護衛隊の大尉を務めた可能性も指摘されるが、証拠は決定的でない。
1649年にハンプシャーの小地主リチャード・メジャーの娘ドロシーと結婚し、妻の実家のあるハーズリーへ移った。ハンプシャーの治安判事となり、郡の委員会にも加わった。1650年代に9人の子をもうけ、5人が成人したが、孫はなく、子孫は残っていない。この時期の彼は父の悩みの種だったらしく、父は妻の父への手紙で、事業に通じ、歴史を読み、数学や宇宙誌を学んでほしいと望んでいた。1653年に弟が議会に加わったのに対し、リチャードは公的な役割を与えられなかったが、20代の1654年に第一回護国卿議会の議員に選ばれて父を補佐し、1655年には貿易評議委員に任命された。1657年には第二回護国卿議会の議員となり、オックスフォード大学の学長を兼ね、12月には国務会議の一員になった。護国卿は後継者を指名する必要があり、この年から父は彼を政治に深くかかわらせた。
1658年9月3日に父が没すると、リチャードは第2代護国卿となった。後継の経緯には異説があり、父が8月30日に口頭で指名したとの手紙もあれば、後継者を指名していない、あるいは娘婿のフリートウッドを挙げたとする説もある。すぐに直面した問題は二つあった。軍人としての経歴がないため、ニューモデル軍に指揮官としての資格を疑われたことと、約200万ポンドと見積もられる政権の負債である。財政を立て直そうと、1659年1月27日に第三回護国卿議会を召集したが、議会の共和主義勢力と軍が組み、解散を求められた。圧力に屈して4月22日に議会を解散した。5月7日に軍が共和派と結んでランプ議会を復活させると、政権の存続を諦め、就任から8か月ほどの5月25日に辞任した。
その後、フリートウッドやランバートと議会が争うなか、ジョージ・マンクがチャールズ2世を迎えて1660年に王政復古を実現させた。報復を恐れたリチャードは、同年7月に妻子を残してフランスへ亡命し、妻が没するまで再会しなかったという。以後は名を変えてパリで過ごし、1680年か1681年頃にイングランドへ戻って、ハートフォードシャーの知人の邸に身を寄せ、政界とは関わらず余生を送った。亡命中には、コンティ公アルマン・ド・ブルボンと食事をした際、旅行中のイングランド人と勘違いされ、目の前で父を持ち上げ、息子を貶められたという逸話が伝わる。1712年7月12日、85歳で没し、ハーズリーの教会に葬られた。為政者としての地位は1年に満たなかったが、2012年にエリザベス2世が在位のまま86歳を迎えるまで、英国史上最も長命な統治者であった。
同じ年に亡くなった人物
- マリー・アデライード・ド・サヴォワ (1712年)
- トマス・オズボーン (初代リーズ公) (1712年没)
- バルタジ・メフメト・パシャ (1712年没)
- ヤン・ファン・デル・ヘイデン (1712年没)
- ジョヴァンニ・カッシーニ (1712年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェームズ・ウォード (画家) (1859年没)
- ビル・ニコルソン (2004年没)
- エディ・チャップマン (1997年没)
- リチャード・ライデッカー (1915年没)
- トレヴァー・ハワード (1988年没)